質問箱に解答したいのだが…
少し前からこちらのサイトに質問箱が設置された。ページ下に「質問を投稿」というフォームがあるので、何か俺に考えさせたいことがあったら何でも書いてくれるといい。
俺としてもそれにテンポよく答えていきたいのだが、設置されて2つ目の質問が「なぜ平等でなければならないのですか?」という、めちゃめちゃ重い内容だったために、すぐには答えられなかった。だがよく振り返ってみると、こういう質問にこそ、俺が、あーでもないこーでもないと嘯く需要があるような気がした。
ということで、このご時世とてもセンシティブな議題に、無責任に切り込んでいく覚悟を決めた。以下に書かれる内容のようなものを気に入る独特な感性をお持ちの方がいれば、是非質問箱に質問を投稿していただきたい。(普通に科学的、人文学的な学術の疑問も投稿していただいて構わないし、個人的な体験や嗜好についての質問でも構わない)
平等である必要もないし、平等なんて実現しない
これが俺の結論だ。
「平等である必要もないし、平等なんて実現しない」
そもそも社会、現実の中に、根源的な不平等や不公平など存在しない。あるのは生物的もしくは物理的な非対称だけだ。
有性生殖をする多細胞生物であるヒトである我々は、原始的な生存戦略として個体ごとに極めて多様な形質をもっている。誰一人として、全く同じ個体は存在しない。一卵性双生児のように全く同じ遺伝情報を持っていたとしても、形質の発現の様相は異なる。それは、物理的要因が異なるからで、実験体でもない限り、全く同じ温度、圧力の空間に留めることなどできはせず、かかる力、個体がとる行動、生体に走る電気信号、そのすべてが、外部環境の影響を受け、結果として体内の化学反応はより一層多様となる。やはり、全く同じ個体は存在しない。
これを不平等や不公平と呼称するのはどうだろう?「正しい」だろうか?「正義」だろうか?
そんなはずあるまい。これは寧ろ獲得したものであり、単なる非対称性でしかない。俺とあなたは違う、ただそれだけだ。それ以上の意味はない。さらに言えば、社会で叫ばれるほぼすべての不平等と不公平はこの非対称性に還元できる。
問題は、そもそも意味がなかったはずの非対称性に、社会的に意味が付与されることにある。
社会的に付与される「意味」
まず大前提として、遺伝子の多様性や変異に一定の方向性はない。ランダム、ただの確率過程でしかない。ランダムに変異し発現した遺伝子のうち、生存に適したもののみが自然選択され、つまり生き残り、形質が残っていくのである。
この宇宙には、「優れた遺伝子」も無ければ「素晴らしい形質」も無いし、そんなものに向かっていこうともしない。人間が形成する社会の中、絶えず変化するこの社会の中にこそ、優劣の基準があり、その価値観がランダム=非対称に「意味」を付与する。
愚かしくも神の賽を神の意志と取り違えたからこそ、優劣の価値基準が生まれ、不平等や不公平が欲望を刺激し、人は争った。寧ろそれこそが、人類がこれほどの繁栄を築けた要因なのだろうと、俺は思う。
たまたま膂力に恵まれたことが、たまたま記憶力に恵まれたことが、たまたま共感性に恵まれたことが、たまたま肥沃な土地に移り住んだことが、たまたま支配者の嫡男として生まれたことが、たまたま美しく生まれたことが、たまたま太りやすい体質で生まれたことが、たまたま重度の月経困難症をもって生まれたことが、たまたま白い肌で生まれたことが、たまたま黒い肌で生まれたことが、
時に彼らに権力を与え、彼らから自由を奪った。
(※卑弥呼の神通力は、月経時の苦痛による錯乱を「憑依」と周囲の人間が解釈したことに依るという話がある。)
一体何が「強さ」か、何が「美しさ」か、何が「優しさ」かは、時代、場所、場面で異なるじゃないか。それに、そもそもそんなものなんてありはしないのに。
最初に誰かが、「俺は優れていてお前は優れていない」とか、「俺は神に選ばれた存在だ」とかなんとか言ったんだろう。そのせいで、人類はずっと、「俺は優れているんだろうか?」「私は神に見放されていないだろうか?」と不安がることになった。その不安を打ち消すために、社会の中に作り出される優劣の基準はますます多様で複雑になっていく。遺伝子や形質、それに付随する何か、生や死や神、男や女や子どもや老人であることに、見えるすべてのことに意味を見出そうとした。
この行為がいくつもの残虐な歴史を作り出したことを忘れてはいけないが、同時に科学の叡智もまた、ここにその源泉があるであろう。
善いとか悪いとかそういうことではないんだろう。人とはそういう生き物だ。
誰かが自分の力に価値があると主張する。社会がそれを認める。後ろ盾を得れば権力になる。権力がまた新たに価値基準を生む。そこで生まれる追従と反発が、価値観を文化として形成して、移り変わっていく。
平等なんてない。不平等もない。
彼と彼女が違う生物だというだけ。自分の力、自分の生に不安を感じてしまうから、持つ者はより一層得ようとし持たざる者から奪い、持たざる者はそれを不平等と叫び、結局持つ者から奪おうとする。
元々存在しなかった不平等が作られ、それを是正し、またそれが不平等になり、またそれを是正する。
認識と構造を変えねば、不平等は無くならない。そして目指すべき認識とは、「平等を目指す必要はない」というものだ。
人権、そして格差是正の正義
勘違いしないでほしいのは、現状存在する格差の是正に価値がないとかそういう話をしているわけではないということだ。格差が存在しないとも言っていない。
格差と不平等は違う。不平等や不公平は倫理や道徳の話だ。そしてそれが、根源的な非対称性にこじつけられた社会的意味づけであることは今まで話してきたとおりだ。一方格差は、単純な「差」である。明確に存在する「差」の認識だ。そしてその是正に倫理や道徳の話はいらない。
なぜか。
非対称性をそのまま個性として認め合うことはできない。人は一人では生きていけないから。社会に生まれ落ちた時点で、もう一人ではない。普通人は未熟な状態、二足歩行も会話もできない状態で生まれるし。個性ではなく、(生存)能力の欠如として考えて、能力を持つ者が補う必要がある。人類が、そしてその祖先となる霊長類が、ここまで連綿と生命を受け継いだことを考えると、この補助の概念は、なにも倫理や道徳の話ではない。脳に刻まれた共感ないしそれに類する機能によるものだ。
結局のところ、格差の是正は、道徳ではなく「共感」という機能によって行われる、能力を持つ者が持たない者を補助するという行為である。誰かに対して、死んでほしくないと思う気持ち、自由に生きてほしいと思う気持ち、誰だってあるだろう。経済的もしくは物理的に彼らを補助するだけの余力があるならば、その気持ちに従えばいい。余力がないなら、仕方のない話だ。
生存能力以外の差異を、どうして是正する必要があろうか。そこから先はコンプレックスとの向き合い方、他人の見る目との向き合い方の問題であって、社会正義の問題ではない。
みな平等に人権を持つと、偉い人が言った。生まれながらの権利。
違う。権利があるのではない。生まれたという事実、それだけがあるのだ。
生まれたということは、生命が生きていこうと機能し始めたということ。誰もが生きるために生まれたのだ。そして、その生を否定する者も共感する者も存在するという現実。それらすべての生命が異なっているということ。
人権とは、認識の基礎であり、生のよりどころであり、免罪符である。
平等でなければいけないなんてことはない。そもそも一体何をもって平等だという?
家族、恋人、友人、クラスメイト、教師、上司、同僚、後輩、同じ電車に乗っていたサラリーマンや妊婦、公園でラジオ体操をする老人たち、漫画家、アイドル、av女優、国会議員、漫才師、YouTuber、アフリカでカカオを栽培する農家、寒空の下銃声に怯える異国の人たち、戦争を始めた国の子ども、原子爆弾を落とした国の子ども、落とされた国の子ども、そしてその人たちの家族、恋人、友人…
生きていてほしい。死んでほしくない。
偉そうなやつが垂れた平等を語る演説なんかより、その気持ちの方がよっぽど本物じゃないか。
この世は本当に世知辛いもので、自分ひとりが生きていくのが精いっぱいだけど、生きていてほしい誰かが、今生きていけないかもしれない、もしかしたら今後そうなるかもしれない。そのために俺たちは一生懸命に生きて、その誰かのために力を持たなきゃいけないんだ。無力に嘆きながらも、あきらめずに強くあろうとしなきゃいけないんだ。
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