人生とは人が生きた軌跡に他ならない。では生きるとは何か。単なる生命の維持ではない。そこに轍は遺らない。
生きるとは絶望の彼方へ行くことだ。
生きていれば、必ず直面することになる。他者への憐憫、友人との決裂、親への憎悪、自らの愚鈍。
絶望に直面し、さらにその大きさに絶望し、己の無力にまた絶望する。
そこで諦めることもできる。その決断は決して外部の人間が責めることができる次元のものではない。俺がこれを書くのは、絶望から逃避する人を卑下するためではない。そもそも卑下することなどできない。俺がこれを書くのは、今堪え難きを堪えるすべての人が、今絶望の彼方へ向かうすべての人が、少しばかりの勇気を持てるように、その自意識過剰な願いに依る。
絶望の彼方へ行く。そうしてあなたが生きた証が刻まれる。この証は不滅なのである。少なくともあなた自身に、新しいあなたという形で、それは遺る。生きるとは絶望の超越で、それがあなたという人間を象どり、それが人生となり、そしてまた、あなたが出会った誰かの人生へ連続する。
人の心を動かせるだろうか。
人を変えられるだろうか。
自分を変えられるだろうか。
自分は変われるだろうか。
自分の愚かさを憎み、変わろうと必死になる。一所懸命に生きる。それでも尚、何も変わらぬ自らの愚かさに、また絶望する。生きていることが虚しくなり、人はどうやったって変われないと哀しくなる。
だけどお腹は空いてしまうから、ご飯を食べる。
だけど身体は汚れてしまうから、お風呂に入る。
だけど日々は疲れてしまうから、ベッドに潜る。
そうして、また幾分かの勇気が湧いて、また自分の愚かさに向き合っていける。
この果てしない営みの中に、人生が生まれ、肉体に人が宿る。
自分の愚かさに苦しむのではない。自分の愚かさを変えようと生きることに苦しむのだ。
ヒトは誰しも、愚鈍を背負って生まれてくる。原初のヒトが、全個体が生まれながらに持つ「それ」を愚鈍と思ってしまったから、もう仕方のないことなのだ。
愚鈍は俺の特性ではないしあなたの個性でもない。
だが、その内訳は違う。より厳密にいえば、どの愚鈍を憎むかは人それぞれだ。愚鈍は多面的で多元的なのだ。
ある愚鈍を憎み、それを直視して、共に生きていく。
絶望の彼方で、それを駆逐しているかもしれないし、それと和解しているかもしれない。もしかしたら、何も変わっていないかもしれない。
でもそれでいいのだ。絶望の彼方へ行くということは、絶望の克服ではない。一つ絶望を拾い、背負って、また歩み始めることだ。
人は変われるのかもしれない。ただもしそうだとしても、変われるのは自分自身だけだ。
人を変えることもできるかもしれない。ただもしそうだとしても、人を変えられるのは人だけだ。もっと詳しく言うと、俺があなたを変えられるとして、それができるのは、俺自身が生きてきた人生によってしか、それは成し遂げられない。
他者に絶望しても、彼を殴って、騙して、無視して、それで何になるというだろう。どうやっても、人を支配することはできない。人は思っているよりもずっと自由なのだ。
支配して捻じ曲げることはできない。もしできたとしても、それは絶望の彼方へ行くことではない。むしろ、絶望に屈服するようなものだ。
誰かに絶望したところで、できることは、自分の人生を歩むことだけなのだ。あなたの人生があなただけのものであるように、あなたではない誰かの人生もまたその人だけのものだから。自分の人生を以て、誰かを変えることしかできない。ならば善く生きねばならない。
結局、何に絶望しようと、最後に向き合うことになるのは自分だ。自分に向き合うまでは、人として生きるための準備期間にすぎない。そして、自分を見て、知り、憎み、少しずつ赦していく。
人生とは人が生きた軌跡。生きるとは絶望の彼方へ行くということ。絶望の彼方へ行くというのは絶望を拾いあげて背負いまた歩くということ。
あなたは、拾い上げた絶望の蓄積だ。あなたの個性は、あなたが何に絶望してきたか、ということになる。
どんな愚かさと出会って、憎んで、変わろうとしてきたのか。それがあなただ。
そりが合わない人がいたって、それは、憎む愚かさが違うだけかもしれない。または、彼もその愚かさを憎み苦しんでいるのかもしれない。もしかすると、人生の一歩目を踏み出す準備中なのかもしれない。
俺は、俺自身を見捨てない。どれだけ打ちのめされようと、どれだけ自分が情けなくても、どれだけ自分の無力に虚しくなっても。
見捨ててはいけない。見捨てたらそれ以上何も遺らない。こんな人生で誰かを変えられるのか?こんな人生であなたを幸せにできるか?見捨ててはいけない。何かを遺さねばならない。人生をもっと修練しなければいけない。誰かの心を動かしたいなら。幸せにしたい人がいるなら。
このサイトは俺の友人が管理・運営していて、俺自身は文字列を生成しているだけなのだが、彼が先日サイトデザインを変えたということで、各記事の下部に質問箱が設けられたようだ。早速質問が届いたようで、その内容は「なぜ人は道徳的でなければならないと思いますか?」というものだった。
俺は、人が道徳的であるべきだという義務を普遍的に妥当する原理は存在しないと思う。我々が従う義務や法があたかも特定の道徳律に則っているかのように説明されるから、騙されてしまうけれど、義務はあくまで義務で法はあくまで法だ。道徳とは全く関係ない、秩序概念の射程圏内にあるものだ。
道徳は多様である。そしてある時、人は自発的に道徳的であろうとする。それは、ある道徳を尊いと心から思うからである。
道徳とは、まさにある人の人生が、また別のある人の人生を変えるという、何よりもの証拠である。
ある愚鈍を憎めば、自然とそれに対応する道徳が出現する。ある愚鈍ととも生きた誰かの人生は即ち、ある道徳と生きた人生になる。そしてその人がまた他の誰かと出会う。その時、その道徳は、彼に、自らの愚鈍を気づかせるかもしれない。そしてそれを憎ませるかもしれない。そして、道徳的でありたいと思わせるかもしれない。
少なくとも、このような営みがあったから、道徳を説く試みが形として残っている。そこで説かれる道徳があなたの人生を変えるかどうかは別問題だし、従うかどうかは勿論自由だけれど、誰かの人生を変えて、自発的に従ってきた人がいるのもまた事実。
道徳的でなければならない、といつか自分で思うときがくる。そうして絶望の彼方へ行くのであり、その先に完成していく道徳が、また誰かを絶望の彼方へ連れていく。
自分自身を見捨てない。自分の愚かさに苦しむのではない。自分の愚かさを変えることに苦しむのだ。
また生きていくしかない。
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