愛されたい。ただ漠然と、愛されたい。
どれだけ強がって孤独が好きな振りをしても、必ずいつか寂寞が夜とともに襲う。
そんな夜に独り歩けば、やけに身体は重い。反対に頭は冴え渡っていくけれど、疑念と絶望を量産し続けるだけで、一層歩みは鈍くなる。どうして愛されないんだろう。どうしてわからないんだろう。
愛されない俺たち。
そんな人たちによる営み。また俺たちは増えていく。
消え去りたいのに死にたくない。どれだけ己を憎もうと腹が減る。生きようとする。そして増えようとする。
愛されたいという欲望、愛されないという絶望。そして、それが生命の欲望によって持続し増長していく。結局俺たちは逃げられない。
悲しみでも、苦しみでもなく、ただただどこまでも空っぽな自分を、ひたすらに可哀想に思う。
夜は更ける。だから、こうやって文字にしたり、誰かに話したりして、どうにか自分の空っぽを別の何かにしようとする。決して満たされえないその空っぽを。
走り続けていると、疲れてくる。休もうと足を止めると、一挙に乳酸の蓄積が全身を襲う。もう二度と、走り出すことはできない。
俺は旅行で訪れた京都で独り、中学時代、毎日走ったグラウンドを思い出す。
友人もなく、恋人にも突き放され、知る人すらいないこの地で、俺はそんな蓄積に襲われていたんだ。自分の空っぽに絶望して、だから走り続けた。空っぽを何かにするために。そして、独りになった時、俺は改めてその空洞を直視する。もう二度と、走り出すことはできない。のだろうか。
俺は、生きていることがただただ申し訳ない。そして、俺が俺自身に悩んでいることは、さらに申し訳ない。こんな価値のない人間が生きていること。そしてそんな俺ごときが素晴らしい人間たちと出会えたこと、幾分かの才能に恵まれたこと。それで尚、愛されようと過剰な欲望を持っていること。その欲求不満に苦悩していること。すべてがただ申し訳ない。
だから、何とか価値を生もうとする。せっかく授かった才なのだから、独り図書館にこもり勉強する。勉強し続ける。せっかく出会わせてもらったのだから、何かを返そうとする。あなたの幸せを俺の幸せと思う。
余計なプライドは捨てろ。ずっと言い聞かせてきた。それは俺が持っていいものではない。
でも無理なんだ。取り繕っても、取り繕っても、必ずどこかで綻ぶ。隠そうとしても、いずれどうしようもなく愚鈍な俺の本性が、あなたを傷つける。クソみたいなプライドが、俺自身の幸せを考えさせる。
そんなものいらないのに。そんなもの欲しがってはいけないのに。
主人のいない奴隷。或いは、人間という檻の中の囚人。
俺は結局誰も幸せにできないし、だから幸せになれない。与えない者は与えられない。愛さない者は愛されない。
この世の中は不平等なわけじゃない。人間が非対称で、等価性を認識しえないだけだ。つまり、愛する者も、愛されない。愛しても、愛しても、愛されない。
愛が何かは人によって違う。その伝え方も違う。少なくとも肉体というハードが非対称である以上、仮に同じものを返そうとしても、それは叶わない。どうあがこうと、人間関係において等価交換は起こりえない。起こるとしたら、それは人間関係ではなく契約関係だ。
それでも愛されたいと願ってしまうから、何かを歪ませるしかない。
非対称性を捻じ曲げて不平等だと言う。等価性に目を瞑って自分を殺す。
何が良いとか悪いとか、そんなものじゃない。戦略が異なるだけに過ぎない。
俺の親は、自分を殺す戦略をとってきたんだと思う。そうやって愛を感じ取ってきたから、俺は自分を殺すことでしか愛を伝えられない。血は争えない。
好きだという欲望が生まれる。それを満たすために、即ち愛されるために、愛するという反応が生じる。
好きだという欲望。これは性欲ではない。生殖の欲求は、肉体の欲望に過ぎない。好きだという欲望は、理性の欲望、もしくは、理性の欲望と肉体の欲望の複合体である。
空腹は肉体の欲望だが、だからといって、そこら辺の雑草や虫を食べたり、雨水を啜ったりはしないだろう。美味しいものを食べたいという理性の欲望があって初めて、食欲となる。
欲望は抑えられない。どれだけ自分を卑下しても、どれだけ自分を軽蔑しても。そこにまた絶望しながら、その絶望と醜い欲望を背負って生きていくしかない。道中無数の罪を拵えながら。他人を傷つけるという罪を。
愛されない俺たち。
究極的には愛せない俺たち。
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