【無知(バカ)は口を閉ざすべきか?】議論に必要なもの

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語りえぬものを語れるか

今興味深いツイートを見つけ、それについて思うところがあり、記事を書くに至ったところだ。急いで書くのでつたない文章になるだろうが許してほしい。発端となったツイートは以下のものである。

鳥羽和久 KAZUHISA TOBA(@tobatoppers)氏のツイートから引用

このツイートを見た第一印象は、「納得」だった。鳥羽氏の意見に同意だった。ほとんどの部分において、その姿勢は今も変わらない。だが、時間がたつにつれて、疑念も湧き上がってきた。本当にこの通りなのだろうかと。ここで「小学生」とされている主体は、そのまま「無知」という表現に置き換えていいだろう、鳥羽氏の比喩を借りるなら、”手持ちの洋服が少ない人”だ。つまり洋服=(事前)知識なわけだ。ここで鳥羽氏のいう内容を抽象度を増してまとめれば、「無知な人間同士で議論させても社会適応的・常識的な”つまらない”結論にしか帰着しない」となる。もっと過激に言えば、「無知な人間に議論させても無駄だ」となるし、おそらく小学生を主体にしているところを汲めば鳥羽氏が本質的に言いたかったのは「小学生のような子供達には早期から”議論”させるのではなく、それ以前の知識を身に付ける段階のほうを重視すべきだ」となるだろう。

なににせよ、「無知な人間による議論には価値がないのか」という疑問は残る。無知な人間は議論してはいけないのだろうか?では、無知と”非”無知の境が曖昧なこの世界において議論できるのはいったい誰なのか?少し立ち止まってみると、考えるべきことは十分ありそうだ。どのような準備のもとで、どのような力を用いて「価値ある議論」が完成するのか、ここでまとめてみたい。

知識と手法

まず、現時点では、「無知であっても価値ある議論ができる」というのが私の意見だ。経験的にもそうだと感じるし、なによりそうでなくてはこの世に価値ある議論など存在しえないことになる。とはいえ、事前知識のような前もって準備された何かしらが存在しないと、価値ある議論にならなそうなのも事実のようだ。直感的には一般的な小学生と大学生の集団だったなら議論させれば後者の方が価値ある議論となりそうだ(もちろん大学生の専門外の議題を想定している)。

それは「手法」なのではないか、と考えている。つまり、議論という行為を行うにあたって、その意義を決定づける要因は事前に準備された知識だけではなく、議論を発展させる「技術そのもの」も考えなければいけないだろうということだ。まず論理的に意見を組み立て、表現するということ、発表された意見(もしくは元々議題として準備されていた意見)を批判すること、批判から議論を発展させること、このような技術、議論の手法が備わっていなければいけないのではないか。

簡単に言えば、知識のインプットという段階も重要だけど、それと同じだけ、アウトプット・他者のアウトプットを評価するという技術も重要だろうと、そういいたいのである。実際、インプットに偏った知識偏重の生産性のない人間はごまんといる。よく勉強バカ、頭でっかちなどと揶揄される人種だ。某掲示板サイト創設者のようにアウトプットだけ達者そうになっても意味はないのだが、インプット・アウトプットの成長(準備)バランスは確かに考慮すべきだろうと思われる。

新たに湧き上がってくる問題

鳥羽氏は、事前の知識がない状態の子供たちに議論させるよりも、知識を身に付けてもらう授業(に類するもの)を行う方が有意義だろう、という立場だった。前節の議論から、この鳥羽氏の意見に加えて、議論を行う手法を身に付けることも重要だということも考慮に入れることにする。すると、ではどのようにしてその手法とやらが身につくのか、ということになる。

インプットは授業や本を読む、のような具体的な手段が思い浮かべられる。アウトプット技術を伸ばすにはどうか。まず、アウトプット技術を伸ばすには、アウトプットをするのが良い、という主張が考えられる。もっともそうだ。この主張を受け入れれば、今回渦中にある小学生による哲学の議論も、無駄ではないということになる。哲学という学問に対してある答えや立ち位置を求める、という目的を持った議論ではなく、そもそも議論の練習として用意された議論であり、そのテーマがたまたま哲学だったに過ぎないというわけだ。

だが、実際に”アウトプット”することが、アウトプットの技術を上げるかと言われれば、どうも確信を得るには心許ない。私としては、正しい議論の手法というものすらも、事前に学ぶ必要があるのでは?と思うのだ。そして、それを学ぶ準備は実はすでにできている。質の高いアウトプットは、インプットの際に体験しているはずなのだ。授業や本を読むこと、そこで使われている表現手法こそが、質の高いアウトプットではないのか。

ここで、問題が起こる。インプットのためのインプットを行うと、つまり、知識を頭に入れるためだけのインプットを行うと、アウトプット手法を学べないのだ。これは受験数学などでよく見られる現象だ。「公式暗記では歯が立たない問題」と呼ばれる問題がある。これがまさにそれだ。公式がどのようなロジックで成り立っているかを深く理解していれば解けるが、暗記しているだけでは簡単な問題は解けても入試レベルには太刀打ちできないみたいな。そろそろ私自身のロジックが怪しくなってきたが笑。

さらに残念なことに、教育の場では、教える立場の者が進んで知識偏重型のアウトプットを行うこともままある。そもそも、子供に質の高いアウトプットに触れる機会が準備されていないという悲惨なケースである。

議論に必要なもの

以上の議論を着地させたい。

議論のためには、事前にインプットされた知識も重要だが、アウトプット手法が身についていることも重要である。知識が全くないのは確かに文字通り話にならないが、決して専門レベルの知識がなくても、アウトプット手法のレベルが十分あれば、質の高い議論が行われることもあり得る。逆に知識が豊富でも、技術が乏しければ、議論の質は低いものとなる。

知識のインプットは授業や読書で行われ、そこで使われている表現技法や議論の進め方を理解することがアウトプット手法の練習準備となり、それを実際の議論で行うことで、技術も洗練されていく。また、アウトプットにおける知識の躍動をもってインプットが完成しているといえ(アウトプットできなければ知識の事前準備としては不十分)、インプット・アウトプットは表裏一体なのである。

そのことを理解したうえで、我々は議論に臨むべきだし、議論の場を子供に準備する大人は理解する必要がある。知識がないから議論がつまらないものになるという見解はもっともではあるが、知識偏重型の思考を流布する可能性もあり、その危険性と盲目については自覚的でなければならないだろう。

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