【性産業はなくなるべきか】性産業の本質的な問題と根本的な解決

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性を売るということ

最近では、ジェンダーやLGBTの議題が様々な場面で現実的に論じられることも増え、「性」について語ることも大分身近になり、そのマナーと知識も社会に蓄積されていると体感できる。

今回はそんな「性」をテーマにした議題の中でも特段デリケートな「性産業」について考えていきたい。風俗業や水商売、アダルトビデオなどの、「性」を売る産業は倫理的に正当化できるだろうか?そもそもなぜこのような産業が存在しているのか?冷静に問題の本質と解決策を分析していきたい。

理由は最終節で述べるが、今回の議論は通して性産業否定派の立場で進めさせてもらう。

単に排除するのは危険

性産業否定派の意見は、その理由は何であれ、結局のところ「性産業を排除する」ことに集約できよう。その理由について議論するのは置いておいて、一旦「排除策」の、より正確にはインスタントな排除策の危険性を確認しておきたい。

まず、「排除」として自然に性産業が衰退・消滅するのを待つのは現実的ではない(というかこれは排除とは言わない)。つまり、排除策とは「排除」という言葉通り、能動的に当該産業を排除するような法整備を行うということになる。しかし、これでは本末転倒である。このような法整備を行った場合、むしろ、性産業が(実質的)市場規模を拡大したり、その環境をより劣悪化させたりする可能性が発生する。このメカニズムを説明しよう。

現時点で性産業が産業として成立している以上、社会の中に需要があるのは事実であり、財・サービスの供給があるということは「供給者」がいることを表す。持続的な供給が長期間維持されていることを鑑みるに、労働力需要に対する供給量も十分であり、労働者側にとって性産業はある程度の魅力を持っているということを認めざるを得ない。産業として成立、それも長期間巨大な市場規模(風俗業だけでも5.6兆円規模、映像や画像コンテンツも含めると6兆円規模を超えると想定され、オンラインゲームの市場規模が1.7兆円、放送が3.9兆円、印刷業が4.2兆円、鉄道が7.5兆円であることなどと比較するとその規模の大きさがわかる)を維持しているということ、この事実から目を背けることはできない。
では、これを禁止するとどうなるだろう?禁止されたからやーめた、と市場から誰もいなくなるのだろうか?そうとは考えにくい。禁止されたとしても、「需要」がなくなるわけではないから、ビジネスのチャンスは残存するのである。それもブラックなビジネスである。要するに、禁止されれば、”違法”な取引が行われる場として、結局市場は維持されるということだ。
無論、これは可能性の話ではある。だが非現実的な話でもない。例えば麻薬取引を考えてみると、麻薬を禁止し厳しい取り締まりを行ったアメリカよりも、麻薬を認可し公的機関が販売するようになったスイスの方が薬物中毒者の量も実際に取引された麻薬の量も少なかった。これが示すように、単に禁止するだけでは、却ってブラックなビジネスを奨励する結果を招くこともあり、少なくとも産業自体が不健全化することは間違いなく、場合によっては寧ろもとより市場規模が拡大する可能性もある。
そもそも性産業は、グレーな商売をする団体も多く、アダルトビデオの違法アップロードや性風俗サービスにおける高額請求やレイプなど、犯罪の温床ともいえる産業である。そこでインスタントな排除など行おうものなら、すぐさま闇取引が社会に蔓延するだろうと、私は思う。取り締まろうにもいたちごっこになるであろうことは目に見えているし、近年ではインターネット上での取引の取り締まりの困難は増すばかりであり、その発見と検挙のために費やされる予算を考えると気が遠くなりそうである。

とにもかくにも、性産業を禁止・排除するような法整備は、問題の解決策としては全くナンセンスなのである。それどころか、寧ろ真逆の効果をもたらすであろう。

需要と供給から問題の本質を探る

もし性産業を排除するとして、法整備といった上からの圧力では逆効果となるとは確認したが、それはつまり、根本的な需要と供給を消滅させなければいけないことを意味する。そして、その視点に立った時初めてこの問題の本質的な困難が見えてくる。

需要から考えてみよう

性産業の需要の源泉、それは言わずもがな性欲であろう。最大限譲歩しても、性欲によって性産業の需要の大部分を説明できるというのは揺るがないだろう。蓄積した性欲のはけ口として性産業の財・サービスが機能しているのはまず間違いないだろう。人によって個人差はあれど、性産業の市場規模から考えると、性欲が実質的需要を喚起することは人間にとっておかしな話ではないといえる。

この需要を消滅させることは可能なのだろうか?

かなり困難だとは思うが、限りなく消滅へ近づけることは可能だと思う。「性欲は消せないから需要を消滅させることはできない」という人もいるが、これは全く的を射ていない分析だといえる。性欲は消せないかもしれないが、それと需要の消滅の不可能性には何の関係もない。問題は、「たまった性欲を性産業の財・サービスで発散する」という価値観の存在なのである。性欲が募ったとしても、別の方法で発散するのが普通になれば、需要を消滅させることは可能であろう。世の中に”そんなもの”を見るなんて「よくない」という価値観を根付かせるということだ。

現代日本でいうタバコが、まさにこのプロセスによって衰退した産業といえる。タバコを禁止したのではなく、自身の健康に対する害悪、加えてタバコを吸うことによって周囲の人に与える健康的害悪についての認識が流布されることによって、タバコを吸うこと自体が「社会的悪徳」とカテゴライズされ、同時に喫煙者の分断によりそれは可視化され、自然と喫煙の需要自体も煙のように消えていったのである。

性産業にもこのようなチャンスはあると考えている。既に、”そんなもの”を見たり、”そんなこと”をしたりすることが「恥ずかしいこと」と認識されているのは否めないが、それでも、「普通のこと」ではある、というイメージもまた深く根付いている気もする。学生同士でそのような話題で盛り上がることはザラであるし、大人の世界でも風俗店やキャバレーでの接待は普通に行われている。時間はかかるかもしれないが、このような価値観が180度転換され、欲望にかまけ性産業の製品に手を出すことが社会的悪徳と考えられるようになっていけば、需要の消滅は可能であるかもしれない。近年では、ポルノを定期的に見ることによる身体的・精神的リスクを警告する論文や著作も発表されることも増えてきていて、また、性産業否定派の勢いの伸長も顕著である。令和の時代が大きな転換点となる可能性は大いに期待できよう。

供給側の問題

性産業の問題として、議題の中心にあるのは、供給側の問題である。前節では、供給された性産業の財・サービスを享受することを普通のことだと思う価値観がおかしい、という需要側の問題について論じた。今度はそもそもなぜそのような財・サービスが供給されているのかという疑問、そしてそこにある倫理的な問題について考えていきたい。

供給者がいるというのは、そこで「労働したい」もしくは「労働せざるを得ない」労働者が存在するということである。もし労働したい人がいるなら、それはその人個人の自由であり、それを侵害することは許されないので、このようなタイプの労働者の存在可能性の問題に関しては前節の需要側からのアプローチなどで性産業の排除をしなければならない。しかし、往々にして問題視されるのは労働せざるを得ない労働者の方である。一般的な価値観にとって、不特定多数の人間に対して裸や性交を曝したり、素性も知れない赤の他人の身体に触れたりすることは、何か外部からの力によって強いられない限りできないだろうと妥当に考えられるからである。

そして、その「外部からの力」というのは多くの場合「経済的困窮」と解釈される。だが実際これは労働者のプライバシーの問題であると同時に、性産業が自らの産業を健全に見せるためにも、アダルトビデオの出演者や風俗店の従業員が経済的に困窮している、という事実はほとんど確認できない。ここがまた難しいところで、具体的なデータを提示できない以上(もしあったとしても、データ分析に強く認知バイアスがかかっている感は否めない)、「貧困層が性産業に搾取されている」という構図を現実であると考えることは危険である。もしかすると、性産業に従事する労働者は、「労働せざるを得ない」者が多数派なのではなく、「労働したい」、もしくはそこまでいかなくても、労働のオプションとして正当に選択された上で労働している者の方が実は多数派であった、ということもあり得る可能性も残っているのである。

どちらにせよ問題は、「価値観」と「貧困」に着地する。もし、能動的に性産業に従事する者がいるのであれば、そのような価値観(性産業に従事することがおかしいと思わないこと)自体を是正していかなければならず、受動的に性産業に従事させられる者がいるのであれば、その原因となる経済的貧困や労働能力の欠如を解決しなければならない。前者に関しては前節の需要側の問題のコンテクストと重なる。後者に関しては、なにも性産業に限った話でもない。ほかの産業においてもそこで「労働せざるを得ない」状況に置かれている労働者はいるからである。経済格差や能力格差の問題が、世界的に長く問題たり続けて居ることを考えると、その解決が極めて困難であり、こちらの方向から性産業の排除を達成することは難しいのかもしれないと感じてしまう。社会保障対象者が増えることを嫌って行政は性産業の問題に消極的なのでは?という邪推も湧いてしまうところだ。

倫理的な問題点

これを最終節とする。

なぜ、性産業は排除されるべきなのか?

それは、性産業を奨励する道徳的根拠があげられないからである。

正直、私は、なぜ性産業は排除されるべきか?という問いに対して、積極的にその理由を説明するための整理がついていない。私にも、なぜかはわからないのである。だが、性産業は奨励されるべきか?に対して、積極的に肯定できないということは明らかなのだとわかるのだ。

あるAV女優が、実家に帰省した際のエピソードを語った一節である。

「すっぴんで日焼け止めも塗らないで朝と夕方に散歩する。そんな1週間だった。女であることを忘れて生きられてホント超幸せだった。」

これが性産業に従事する人たちの総意ではないのだが、少なくとも、「女であることを忘れられる」ことに幸せを感じる女性が一人いるというだけで、奨励されるべきか?の問いに肯定する理由が完全になくなってしまった。

「女であること」の強要はすなわちジェンダーの問題に転化されるが、ではジェンダーの問題が、”問題視”されているのに、なぜ性産業を肯定できるのか?その2つは決して両立しない。そしてここから導かれるのは、これまで議論の中に登場した「価値観」というワードが、ジェンダーの問題のコンテクストに登場するものと合致するということである。

「積極的に肯定できない」ということを、すぐに「積極的に排除すべき」、という結論に帰着させることはできないのだが、ジェンダーの問題や経済格差、能力格差の問題が社会的に解決すべき問題とされ、その解決の先に性産業の消滅があると考えられるならば、やはり性産業は社会的悪徳なのではないか?

性産業の是非の議論では、肯定派にも否定派にも感情的になっている節が見られ、どうにも根本的な解決が期待できない。この機会に改めて冷静に、性産業の是非について考えていただきたい。

そして、

性産業の是非の議論と、自分の欲望を抑えられるか、というのは全く別の問題なのである。

(だから行動と思考は切り離して考えていいのである)

(愚かな欲望を押さえつけるためにも社会規模の大きなムーブメントが必要なんだと、これまた愚かにも欲望してしまうのである)

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