【政治に興味を持つべきか】なぜ若者に政治への関心が見られないのか?

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最近の若いもんは

政治家がテレビに映されない日はない。毎日毎日、ニュースや新聞で、インターネットでも、政治的な問題は忠実に、時に歪曲されながら報道される。情報はある程度十分提供されている一方で、「日本の若者は政治への関心が極めて薄い」と他国から非難されたり、選挙があるたびに「若者の投票率が低い」と言われたり、どうにも若者は政治に興味が無いようである。

このようなポリティカルアパシー(政治的無関心)、特に若者のそれは、重大な問題ではあるのだが、その原因はどこにあるのだろうか。若者が悪いのだろうか?日本の若者は幼稚で馬鹿な連中の集合体なのか?

政治がわからない

最も大きなポリティカルアパシーの原因は、「政治がわからない」ということである。政治的無関心というより、政治的無知である。

ただし、幼い子どもの政治的無知と若者の政治的無知は明確に異なる(若者といっていい年齢なのに幼い子供レベルの政治的無知の人間も少なくないが…)。幼い子供の場合は、純粋なる無知である。何も知らない状態。それに対して、若者の無知とは、あくまで知識の準備不足である。つまり、無知であることは自覚しているのである。

「政治がわからない」というより、「政治がわからない(がわかる必要もないし困ることもないので勉強する気はない)」というほうが正しい。

いやいや、それが政治的無関心ってことでしょ、と突っ込む人がいるかもしれない。だが、もっとよく観察すれば、このコンテクストが”政治的無知”を説明しているとわかるはずだ。

若者の無知は、具体的に3つに分けられる。「政治の仕組みに対する知識の不足」「現状についての情報の不足」「政治と自分の行動の効果に対する理解の不足」の3つだ。現状の政治問題について語るには知識も情報も足りないし、そもそも政治問題が自分に直接影響を及ぼす実感も、自分の行動が政治問題に直接影響を及ぼす実感もないのである。

その原因は若者が生きてきた歴史的背景にもあると思うが、今回は語られつくされたその題材は横に置いておいて、「情報社会」というレンズで、見ていきたい。

知識が十分な人なんていない

現代、情報が飽和状態である、ということは言うまでもないのだが、とはいえ、今生きている全ての人が、同じだけの情報量にさらされているかといえば、そうではない。情報収集能力や感受性、知識、身の回りにあるデバイスなどによって、その人が体験する情報量は異なってくるはずだ。雑に一般化すれば、直感的には、若者の方が多くの情報を受け取っているといっていいだろう。勿論、受け取る情報の内容に偏りがあることは理解しているが、内容を無視した絶対量で考えれば、若者の方が比較的多量の情報にさらされ生きているのは想像に難くない。

何を言いたいかといえば、まず若者には、政治以外の情報が相当量提供されていること、そして、政治に関する情報量もまた、相当量提供されているということだ。若者にとって、政治以外の情報が絶対多数であり、若者社会の中心はそれであるが故、その社会で生きていくためにそれらの情報を隔絶することは困難なのである。同時に、政治に関する情報も十分量触れるはずだ。だが、そもそも政治の仕組みに関する知識が無いから、それを理解できないし、多くの情報を目にしているからこそ、「たくさん勉強しないと政治はわからない」と思う。限られた時間というリソースの分配において、政治問題が後回しにされるのはおかしくはない。

また、若者の情報収集の主要なコンテンツはSNSに移り変わってきている。そこには、従来と同じ「ニュース」という形の情報もあるが、個人の「主張」という形の情報もある。若者は、若者以外の世代に比べて、政治問題の「カオス」をより一層体験していると言える。ニュースでは、中立にしろそうでないにしろ、ある一つの立場から事象を切り取っている。しかし、実際問題、政治はそういう話ではない。様々な立場の人間が、それぞれのポジショニングに応じて、それぞれの解釈をする。その「カオス」を若者はより現実的に受け取っているのだ。だからこそ、(知識がないために)現時点で意見を持っていない自分がそこに参入できる気が湧かないし、参入する必要もなく十分に議論されているようだし、問題の本質や解決が見える気がしないのではないだろうか。

したがって若者は、「無知」であるということを、「無知」の克服のためのハードルの高さを、他の世代よりも克明に自覚しているのである。「わかる必要がない」というのは、既に知識を持った人が十分いると思っているからだし、「わからなくても困らない」というのは、政治の勉強のために時間を割くということが若者にとって、そのコストに対して見合うだけの大きなベネフィットを持っていないという意味である。

ただ、ここで気になることが出てくる。”既に知識を持った人”は本当に充分いるだろうか?

そもそも「政治の仕組みに対する知識の不足」という若者の問題は、若者だけの問題だろうか?私には、若者を批判する大人の多くに対して、政治の仕組みに対する知識が十分あるとは思えない。さらに言えば、手に入れている情報量に関しては、明らかに若者に劣っているとさえ思えてしまう。リテラシーに関してもそうだ。私の人生において、若者の方が情報リテラシーに長けていると感じた経験は枚挙に暇がない。

自分に関心があるだけ

若者が、「政治に関する知識が豊富」だと思っている大人の多くは、実はそうでもない。若者と”大人”の違いは、「意見を持ち発言するか」だけである。どちらも知識はないし、極論、どちらも政治に無関心である。大人たちは政治に関心があるんじゃない。自分に関心があるだけである。自分の直面する問題との関連度や、自分の生活をよくするか、という軸で考える姿勢が支配的である。政治とは本来そういうものだ、といってしまえばそれで終わりかもしれないが、それでは困るというのも事実であろう。

目先の利益や鎮痛を達成したところで、持続不可能ならば、全く意味がない。これからを生きる若者にとっては尚更。

現代の政治を見ると、情報収集力の低い人が、少ない情報だけを手に入れているからこそ、短絡的に手短に自分の意見を構築することができ、リテラシーも無いから情報の裏も取らないし、反論を汲むこともしないからその意見を恥ずかしげもなく発信して、その集合として政府やイデオロギーが完成しているように思えてならない。中には、勤勉に長期的な視点で多角的に考えている人もいるかもしれないが、圧倒的大多数の、情報不足かつ目先の自分の生活を考える人の意見にかき消されている。

そのような人間の集合知としての政治がうまくいくはずがないのだが、その破綻の責任追及のサンドバックとして政治家を用意して、それを殴ることで、あたかも政府が”破綻させた”かのように仕立て上げ、刷新のタイミングだと開き直る。これが「政治」なんだと疑わない。

こんなのは政治ではない。政治のあるべき姿、つまり政治の参加者全員が自覚と責任を持つということから、都合のいい時だけ目を逸らすという卑怯で愚鈍な姿勢はあるべきではない。寧ろこっちのほうが政治的無関心である。さらに言えばより悪質である。

政治に「答え」はない

若者は、政治に関心を持つ以前に、自身が無知であるという烙印を自身に押すことによって、そこへの参与をはじめから諦めている。彼らが、政治の主体だと思っている大人の多くは、実際のところ、自身が無知であるということに無自覚であるか、もしくは無視しているかで、政治に正しく関心を持つ能力に欠けている。

私は、若者として、同世代の人たちにもっと政治に関心を持ってほしいと思うし、もっと参加してほしいと思う。これは何も、ニュースを見ろとか、選挙に行けとかそういう話ではない。それ以前の、その烙印を消してほしい、という願いである。

そもそも政治に「答え」はない。政治とは「選択」である。正しい解答を求められ続けた学生時代の文化から脱皮することは簡単ではないが、大人の社会は、「選択」が基本だ。正しさは自分で決める。そして、その選択に責任をもつのだ。何かを選ぶということは、何かを選ばないということだから。自分にとっての正しさが誰かにとっては間違いかもしれない。自分の正しさが、誰かの正しさと衝突することもある。自分の選択が、誰かを傷つけることもある。だけど、選択しなければならない。選択の放棄だけは、絶対的な間違いである。それは責任からの逃避という姑息な手段に過ぎない。知識が十分でないとわかっていても、選択しなければならないのが社会である。誰かがやればいいではない。自分が自分の責任の下に選択をして、社会ができるのである。社会システムの恩恵だけ受けて、責任からは逃れようなんて、そんな虫のいい話はない。

責任を誰かに押し付けようとする姿勢をやめて、自分にあるんだと自覚すること、これが政治の始まりであり、これが政治に関心を持つことであり、これが私の望むことである。そう考えると、別に今からでも遅くないし、若者だけが悪いわけでもないし、日本人だけが悪いわけでもないと思うのである。政治問題が誰かのせいではなくて、自分のせいなんだと思えば、自ずと見え方は変わってくるだろうし、関心も湧いてくるはずである。

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