【文系に数学は必要なのか③】数学を学ぶ価値

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いざ本題へ

これまで2回にわたって、本題である「文系に数学は必要なのか」という問いとはさして関係があるようには見えないテーマについて長々と話してきたが、今回でようやくそれについて話すことができそうだ。待たせていたなら、本当にお待たせした。今回は本題である「文系に数学は必要なのか」という問いに対する私なりの意見と、副題として「数学を学ぶ価値」についての見解を述べていきたいと思う。

学問は数学的思考が基礎

前回で述べたが、「学問」に関して言えば、文系・理系関係なく数学的思考は必要である。さらに言えば、文系に分類されている経済学や金融論などでは、理系に引けを取らない、いや理系と区別できないほど数式が登場する。だから文系には数学が必要である。

学生にはどこまで求められているのか

数式が出てくるから、文系には数学が必要です、おしまい。とはいかない。

これでは数式の登場しない文系学問について言及できていないし、入試に数学の試験が課されていない文系学部や、数学を勉強していない文系学生の存在を見ないふりをしていることになる。もう少し考える必要がありそうだ。

まずは、考えやすい後者から考える。入試に数学がなかったり数学の講義が必修でなかったりする学部の学生に数学は必要なのか?という話だ。私の意見をどのような日本語で表現するのかについて一考の余地はあるものの、あえて厳しい言い方をするなら、そのような学部の学生にも必要である。前回もいったが、数学の能力のない大学生などは、大学生の頭数に数える価値はない。この真意についてはまた詳しく後述するが、曲がりなりにも大学生を名乗るなら、「学ぶ人間」であるのであり、その学ぶ対象が数学を内包している以上、相応の数学力がないとあなたはあなたの肩書に足る人間であると言えないだろうというだけの話だ。教員免許を持っていない教師、18m投げられないピッチャー、音符の読めないピアニストのようなものだ。

ただし、私はこのシリーズ第一回目の記事でこうも言っている。”入試問題はその大学が求める人材像を表している。”だから、入試に数学がないなら数学力を求められないかもしれないと。しかしこれは少し違う。もっと厳密に言おう。入試に数学がないということは、次の2つのどちらかを意味する。「”大学生”となることを期待されていない」か「あくまで入学時点では数学力を求められていない」か。前者は単純である。私大なんかで経営資金を得るために手っ取り早く学生数を増やそうと数学を課さないというような状況を想像してくれればいい。こっちについては議論する価値もないので後者に移ると、入学時点では求められていない、つまり、いずれ来る瞬間に学ぶタイミングが設定されている、というケースである。残念ながら実際上このようなケースは極めて稀なのだが、存在しないとも言い切れない。というか、これは「大学」という世界での、学びの自由度を象徴するケースである。

もう少しかみ砕いていこう。ここまでのおさらいをすると、まず文理問わず学問では数学的思考力や、数式処理技術を求められると確認した。それを学ぶなら数学力は必要だ、数学力がないというのは「学ぶ」のに必要な能力が欠如しているのだから大学生と名乗る資格はない!なんて暴論を述べたところだ。だが、”「学ぶ」のに必要な能力”とは、”相応の数学力”とは一体どれくらいのレベルを指しているのか?これは難しい問題だ。求められる能力の指標として入試問題や大学での必修科目を参照しても、数学が登場しないことさえある。しかし、改めて伝えておきたいが、決してこの事実は、文系の学生に数学力を求めていないということを意味しない。

入試の段階で数学力を求めない、ということは、高校卒業程度の数学力さえあれば、今のところは十分、と大学は判断しているということだ。この場合、入試で数学を課している大学よりは遅いペースで、文系専門科目の講義は進むことになるが、それはあくまで位置する段階が違うというだけで、登っていく階段は全く同じものなのである。ある一定のところに来れば、より高度な数学力を求められることになる(=その時点で持っている数学力では理解が追い付かなくなる)ということだ。必修科目に数学が設定されていないのは、高度な数学力を求められる段階まで来た時、そこから先登っていくか、登らないかの選択は学生個人に任せられているということを意味している。また、このように、階段を上っていくたびに求められる数学力が高度になっていき、その先に進むか否かは個人の判断にゆだねられている、というのは、言ってみれば大学での学習態度そのものである。理系の学生も、文系の学生も、この道をたどるのである。

もしも、高校卒業以降数学を勉強していない学生がいれば、それは単に、高校数学レベルで理解できる程度の学問だけを学んだということに過ぎず、文系の学生に数学力は必要ないということではない。大学側及び学問は数学力を求めているが、その学生個人が、自分にはそのレベルの理解は必要ないと判断して、要求を拒否しただけなのだ。

安心してほしいのは、日本の高校数学のレベルは低くないということだ。世界的に見ても、日本の高校数学のレベルは高く、先ほどは「高校数学レベル」と卑下するような表現をしてしまったが、そうバカにできたものではない。私の感覚では、高校数学がある程度わかっていれば(3年間ずっと0点だったとかでなければ)、先述したような「大学生と名乗るに足らない人間」とはならないだろうと思っている。さっきはあれほどバイオレンスな表現をしたものの、その実、高等教育で培われた数学力を信頼しているが故、あくまで読者の気を引くためだけのパンチラインだったと認識していただければと思う。「大学生と名乗るに足らない人間」なんて、スポーツ推薦で大学に来たとか、良くない意味で指定校推薦枠の恩恵に預かったとかの、通常の大学生とは全く異なる動機で進学した人くらいだと考えている。

それってあなたの感想ですよね?と言われないために

では取り残した問題を考えよう。法学や一部の社会学など、一見すると数学とは無縁そうなこの類の学問を学ぶ学生に数学力は必要なのか。これも答えはイエスである。その理由を述べていこう。

前回でも少し触れたが、文系学問にとって数学の存在価値は、「バイアスの排除」がとても大きい。

具体的な例として、有名な「スタンフォード監獄実験(1971年)」を見てみよう。
このスタンフォード監獄実験では主に心理学の文脈で言及されることの多い、非常に有名な実験である。
被験者は公募され、そこから選ばれた21人の大学生が最終的な被験者となった。被験者は看守グループと囚人グループに分かれ、刑務所を模した施設の中で実際にその役割を演じさせた。当初、「役割や肩書を与えられると、それに合わせて行動をしてしまう(役割が人格をうわまわる)」ということを証明するための実験であったが、実験が進むにつれ、看守役は囚人役に対し非常に高圧的で支配的な態度や言動をとるようになり、また囚人役も看守役への強い反抗心を表すようになった。暴力事件寸前のような事態が起こったり、囚人役の学生が重大な精神疾患を発症したりするなどして、元々の実験日程を大幅に短縮する形で、実験は中止となった。

さてこの実験結果から、「役割や肩書を与えられると、それに合わせて行動をしてしまう(役割が人格をうわまわる)」ということが証明できたと結論付けられるだろうか。

証明できたとする立場をとって、この実験内容の後に、与えられた役割が自らの性格とはかけ離れた人格を表出させることがある、というような結論を持ってくることが大多数ではある。だが待ってほしい。それってあなたの感想ですよね?

選ばれた21人の学生がたまたまそういう特徴を見せただけかもしれない。アメリカのスタンフォードに住む若者特有の現象かもしれない。1970年代の若者に見られる特徴かもしれない。

これらを否定できるか?

残念ながら上記の実験結果だけではできない。そもそもこの実験は途中で中止になったわけだし、元々実験を考案した学者は十分なデータを得られなかったというのも一因ではあるが。文系学問は人間を対象とするが故、このようなサンプルセレクションバイアスや認知バイアス等のバイアスからは逃れられないのである。実験や調査を行って、結論を出しても、「それってあなたの感想ですよね?」という疑念からが付きまとう。

そしてそこにある一定の解決策を提示するのが「数学」なのである。特にこのような実験調査の場合は、統計学の技術を用いることでバイアスを最小化できる。無論ここでは需要もないだろうし、具体的な数学的な議論には踏み入らないが、数学を正しく用いれば、「あなたの感想」は「信頼できる推論」に格上げできるのである。

法学ではもっと重大な問題となる。個人の選好を反映したような判決・判例はあってはならない。妥当な基準や根拠がなければ、”法解釈”たる見地には辿り着けない。やはりそこで重要になってくるのは数学だ。根拠とロジックの”正しさ”を担保するのは、論理演算の正しさだ。論理演算といえば、中学校で学ぶ三段論法に始まり、数理論理学まで、数学における言語性や論理性を体系立てた重要な分野である。無論、正しい論理が「正義」とは言えない場面も往々にして登場してしまうのだが(人間という生物は論理演算モデルでは再現できないということは近年のAI開発から鑑みても明らかである)、とはいえ、何が”正しい”論理なのか知っているか知らないかでは大きく異なる。

一見すると数学を使わないような学問でも、数学を使わないとバイアスの問題に直面してしまうという事態に陥ってしまうが故、実際上数学を使わざるを得ないのである。逆を返せば、数学が登場していないように見える場面では常に心にひろゆきを用意して「それってあなたの感想ですよね?」といわせ続けるべきである。

数学を勉強しよう

文系・理系関係なく、数学を勉強しよう。これが私が伝えたいことだ。勿論必要だからこそ、勉強しようと言っているのもあるが、先述した「バイアスを回避できる」という数学の強みは人生でも大きく役に立つであろうと思う。数学的視点とでも名付けようか。数学が与えてくれる眼には、偏見がない。これはとても大事なことだ。日夜多くの人間が自分の意見を小難しい言葉で語り、正義をもっともらしく喧伝する。その中の一体どこに、その人の偏見が潜んでいるか。その人の価値観が反映されているか。それを探そうとする姿勢と、それを見つけ出す洞察眼を数学は養ってくれる。我々は大量の情報を受け取る時代に生きている。今こそ、情報を「正しく読む力」が必要なのだ。

文系に数学が必要とか、そんなのあたりまえで、今や、誰しもが数学を学ぶべき時代なんだと日々痛感するばかりである。

実験や調査から得られたデータが意味することとは何なのか。最近では新型ウイルス感染症に関連する様々なデータがテレビでもネットでも溢れているが、データを並べて、それらしいことを言うのは難しくはない。それを鵜呑みにせず、その推論が妥当かどうか判断する態度が重要なのである。

学んでいる最中は、教科書に書いてある公式や式変形なんかに、こんな力が身につく可能性は微塵も感じないかもしれない。だが、腐らずに勉強し続けてほしい。そしてできるだけ手を抜かずに勉強してほしい。数学の厳密さの追求にこそ、偏見の排除の可能性がある。果てしない厳密さの深淵の道すがら、徐々に我々は偏見から解放されるのである。

勿論、これまでの私の議論にも偏見が溢れているだろうから、是非読んでくれたあなたには、”正しく”読んだうえで情報の取捨選択を行っていただきたい。

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