【文系に数学は必要なのか②】文系と理系の違い

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学問に隔てなし

文系・理系という区別のある日本の大学制度は世界的には珍しい。維新期以降の、西洋社会へ追いつこうという機運の中で、人材育成の合理性の観点から生まれた区別だと思われる(理由はこれだけではないだろうが)。日本で大学生になる以上この区別に与することは避けようがないものとして、だがしかし、その区別の基準を正しく認識する必要はある。今回は、文系・理系のそれぞれについて「学問分野(研究対象・学問の性質)」と「学生生活」の二つの観点から分析していく。文理選択で悩む人は是非見てほしい。

議論に入る前にまず確認したいことがある。「学問に隔てなし」ということだ。日本では文理の区別はあるが、実際上、文系・理系の学問についてその区別に足る明確な区分は存在しないと私は思っている。前回も述べたが、およそ研究対象が、社会科学・人文科学系なら文系、自然科学なら理系と区別しているだけで、そもそも社会科学と自然科学はどちらも学問であり、マクロな視点で見れば、その研究の方法論に大きな差異はないし、もしよりミクロな視点で見れば、文系・理系それぞれの中にも大きく性質が異なると言えるものも見つけられる。繰り返すが、文系・理系の区別は明治期日本の人材育成のプロパガンダのもとに形作られた側面が色濃く、私にしてみれば、文系は官僚、理系は技術者、という帰結に基づく性格を強く感じざるを得ない。文理の区別とは根源的には学問の区別ではないということを念頭においてほしい。

文系も数学使うから

テーマにもなっているのだからこれを避けずにはいられまい。まず、数学が苦手だから文系という甘い考えは、(多くの場合で)捨てるべきだ。文系というのは、数学や理科を使わないということではない。ましてサイエンティフィックではなくスピリチュアルなものだ、というのはあり得ない。所謂学問が扱う「社会科学」「人文科学」「自然科学」はどれも「科学」であり、どれもサイエンティフィックである。”哲学的”や”理科学的”という言葉に誑かされないでほしいものだ。

学問というのは、厳正なる「理論」の構築を目的とする。

その厳正さを支えているのが、”公理”であり、それを形成するのが哲学と数学なのである(かみ砕くよ!)。公理というのは、すべての議論の出発点となるもので、誰しもが妥当だと思う枠組みの設定、即ち議論のために設定されるモデルのことだ。有名な「ペアノの公理」は”1+1=2”を設定するもので、また、哲学のそのほとんどすべての理論が、我々の行動原理や正義の正当性を説く普遍的な枠組みの設定への挑戦といえる。つまり、議論の出発点として、まず、我々が立つ「世界」とはどういうものかを確認するのである。

公理の設定の後、議題となるテーマとなる事物についての”定義”が始まる。これも厳密に行われる。定義は曖昧ではいけない。曖昧ではないとはどういう状態かというと、その定義を理解する誰もが、全く同じ理解をするというものだ。そして、この定義を基として、そこから導き出される、”定理”を説く。この定理も、適切な処理に基づく証明のもとでのみ正当化される。またその後、”仮説”が打ち立てられることもある(実際の学問の中心はここ)。容易に証明はできないが、正しそうな性質の発見である。そして、それを様々な方法で”検証”する。そのもとで仮説の正誤が判定されるわけだが、この際検証は誰にとっても再現可能でなければならない。検証の結果、正しいとわかれば、その仮説は定理として認められるのだ。

ex)理論形成のプロセス「運動方程式」

公理:非保存力が無視できる系のなかの質点の運動モデルを設定
定義:ある原点に対し、質点の位置を表すベクトルを位置ベクトルとし、その連続的変位に関する1階時間微分により速度ベクトル、2階時間微分により加速度ベクトルを定義(1㎏の物体に1m/s^2の大きさの加速度を与える力を1Nとする)
仮説:加速度ベクトルの大きさは、質点にかかる力(ベクトル量)の大きさに比例し、質量(スカラー量)に反比例する(向きに関しては割愛)
検証:惑星や落体、振り子の運動を用いた実験によって検証
定理:ma=F

数学出来なきゃ学問できない

このようなプロセスは、すべての学問共通である(と思われる)。”公理ー定義ー仮説ー検証ー定理”というこの一連の流れは、学問というものが普遍的に持つ構造で、これを満たさないものを学問と認めることはできないだろう。なぜならば、すべての人に遍く同じ理解を与えないからだ。全ての人にとって”1+1=2”だから、これは学問なのだ。人によってとらえ方や理解の仕方が異なるのでは、「理論」としては機能しない。理論とは普遍性の探求そのものである。だから、上のような厳正なプロセスが要請されるし、用いて良いツールも限定的だ。そして、そのツールとして最も、いや、唯一有用なのがまさに、数学なのだ。

”公理ー定義ー仮説ー検証ー定理”というこの一連の流れを構築するためのあらゆる能力が、つまるところの「数学力」だ。抽象(モデル)化・ロジック・問題設定力・検証(問題解決力)といったこれらすべてが、”サイエンティフィック”な思考の要素で、これは文系の学問にも、理系の学問にも必要なものだ。これに従わない思考は、さしずめ陰謀論や似非科学と呼称される。厳正なる構造の規定からのみ「理論」ないし「学問」は生まれる。多くの人が数学力と聞いて思い浮かべる、数式をがちゃくちゃいじる能力はほんの一部で、恐れずに言えばこの能力それ自体の重要性は特に高くはない(分業がしやすいし、コンピュータに任せることもできる)。じゃあ勉強しなくてもいいじゃないかとなるが、それはまた後で(次回)論じようと思う。

結局大事なのは、学問というのは”普遍性”を追求するが故に、厳正さが求められ、それを担保するツールとして、数学があるということ。ここから2つのことを述べたい。まず1つ目は、数学出来ないなら大学で学ぶことを諦めなさいということ。(安心して!)そして2つ目は高校までの数学(受験数学)で求められる能力と、ここで論じている数学力は全然違うということ。この数学力をめっちゃざっくり言うと、ちゃんと厳密か?ちゃんと主観を排除できてるか?ということを常に確認し続ける能力のことだ。まあものによっては数式の理解がかなり必要なところもあるけどね。

文系

長かった前置きもこれくらいにして、それでは文系の学術領域と学生生活についてみていこう。

「人」が研究対象

(多くの場合)文系に分類される学問としては、経済学、経営学、哲学、社会学、言語学などが挙げられるが、その大きな特徴は、「研究対象が”人”(もしくは人が行う活動)である」ということだ。経済活動や企業経営、政治や文化を分析する中で、人間の性質や人間の本質に迫っていこうとするのである。人の精神や心について興味があるという人は軒並み「心理学部」を目指しがちだが、人の精神や心、判断力や理性といった概念は、哲学としては3000年以上前から、経済学としては300年前から研究されてきているので、比較的新しい学問である心理学だけでなくこのような学問にもぜひ目を向けてほしい(心理学も現在進行形で勉強中だけど面白い学問だよ。一橋大学では社会学部で開講してるよ)。ここで言いたいのは、経済学がお金儲けの学問だとか、経営学がビジネスのための勉強だとか、そういうのは誤解だということ。学問としての本質は、「人間の研究」で、それを見るレンズとして経済や経営を扱っているに過ぎない。

文系の学問の特徴として、「即時性」と「検証不可能」という2点を挙げたい。
人間を研究対象にする以上、そのデータは時々刻々と蓄積している。株価変動や、政治動向などだ。学部生であってもリアルタイムの生のデータに注目する必要がある。すこしリアリティのある話をすると、その時点でのニュースに関わるようなレポート課題を課されることもしばしばある(俗にいう時事問題)。ニュースを見るのは勿論、『ガイアの夜明け』や『カンブリア宮殿』のようなビジネス系の番組も見ろと教授から言われることもあった。
また別の重大な特徴としては、文系の学問の多くで、仮説を検証することができない=「検証不可能」の壁に直面することになるというものがある。直感的には簡単に実験ができないという意味であるが、人間を扱う以上、様々なランダム要素やバイアスの問題を避けられないのがその原因である。もっと身近でリアルな話をすると、実験ができない分、”ケーススタディ”を多く扱うという現象が起こる。つまり個々のケースから帰納的に結論を導いたり、あるいくつかのケースからより大きな構造へ一般化することさえあり、厳密性が十分保証されているかに関しては常に注意が必要である。(そもそもケースごとに対する研究から文系の学問ができたと考えることもできる)

いかにして人を見るか

文系志望の皆さんのためにも、数学らしい数学が出てくる学部とそうでない学部の区別を見ていこうと思う。

基本的に文系の学部それぞれの特徴はどこに表れるかといえば、いかにして人を見るか、という点である。切り取り方の問題なのだ。冒頭でも述べたが、人間の行動原理を繙くにあたり、その表出を経済現象に見出すか、歴史に見出すか、芸術に見出すか、といった違いが学部の違いを生んでいる。また、自然科学と同様に、あるモデルを設定(想定)しながら変数の解析を行うことを基本とする「社会科学」と、人類史や芸術作品の調査・批判を行うことを基本とする「人文科学」の2種類に大別することができ、字面から明らかだが、「社会科学」系の学部は数学らしい数学が出てくる一方で、「人文科学」系の学部には数学はめったに出てこない。
社会科学として最も代表的な学部は、経済学部である。数学が苦手な学生は1年生から詰む。経済活動に絡む変数は多く、往々にして扱う関数は多変数関数になり、つまりは多変数解析(偏微分など)の能力は必須で、他にも線形代数・群論・複素解析などの能力が学部生でも普通に求められるので、覚悟してほしい。ある意味では、それがわかれば明解かつ厳密に原理が理解できるので、そこに面白さを見出せる人にはもってこいである。
他にも、経営学系統の学問、学部としては経営学部・商学部も数学がよく出てくる。マーケティングという授業は、見た目こそ数学らしくはないし、学部1年2年レベルでは大して数学は出てこないが、その実、統計解析を用いて、いかに内部データや調査結果を数値化し、正しく解釈するかを追求する学問である。その最たる例として、”数量化理論”があり、これは、本来数値で表せないはずのカテゴリを、ある設定のもとに妥当に数値化するというもので、まさに人間の真理に迫っているという感覚を味わえる。また、金融という分野では、「金融工学」という言葉もあるくらいで、もともと理系の学部に通っていた人が、金融の分野の研究をするほど、扱う数学は深遠である。とくにオプション取引の価格を決定する数式として、確率微分方程式が導入されており、その難易度はわからずともわかるだろう(謎の言い回し)。
一方で、文学部などは、このような数学を嫌う議論が表れる節がある。それもそのはずで、数式を用いる場合には、公理(モデル)を設定せねばならず、それは非現実的で、場合によっては恣意的なこともある(これに対する経済学者の反論も勿論あるので、いつかその話もしたい。また、多くの経済学者が、その非現実性と恣意性の排除のために日々努力していることも理解したい)。文化文芸の歴史の調査や批判、またその社会の反応を基に人間の普遍性を探すのである。
法学部は少し例外的ではあるものの、分類するなれば人文科学系統になる。法典の理解や、法哲学の評価はまさに人文科学的な取り組みの様相を呈している。数学が苦手な人はこちら側の学部に来るのをお勧めする。社会契約論者的な言い回しになるやもしれないが、ある意味で法典の中に記述されている”人間”の存在性や行動原理こそが、現行の社会での真理である。それを支える法哲学や法典の変遷の歴史を学ぶことがどれだけ価値あることか。
社会学部に関しては、どちらの要素も半々に持っているので何とも言えない。ハイブリットマンにおすすめ。

とにかく暇な文系

文系の学生生活についていうことはただ一つ。「暇」だ。

勿論これは比較的、という意味だが、基本的に、学校が忙しいという状況を強制されることはまずない。必修の量は極めて少なく、卒業のための単位を確保するだけなら、4年間週に全休3,4日をキープし続けることも理論上不可能ではない。まさに「自由な大学生活」を謳歌できること間違いなしではあるのだが、問題がないわけではない。

暇があるということがマイナスに働くことだってある。何のために大学に入ったのか、その意思を失いがちである。なぜ宅浪が大変か考えてみてほしい。自分から意欲的に行動しないと、4年間を棒に振ることになりかねない。何かに打ち込めればいいものを、遊んでばかりいたり、それどころか無気力に時間を浪費したりすることだってあり得る。文系の就職活動は理系と比べると過酷で、数十社にESを提出したり、3年生、場合によっては2年生から就活が始まったり、ということもある。資格試験や課外活動、就活の準備など、予め考えておかないと大変な目に合うこともあるかもしれない。その点では、寧ろ下手に暇があったせいで失敗したというケースも考えられる。

逆に暇がある良さは、言うまでもなく「自由な時間が取れること」である。自分の時間が欲しい人や、自分のペースが確立されている人にとってはこの上ない環境である。やりたいことが明確であったり、多様であったりする場合には、文系の学生として大学生活を過ごしてみるというのもありかもしれない。

理系

次に理系の学問と学生生活について書いていくのだが、いかんせん私は文系の大学生なので、そこは注意してほしい。偏見だけで書いているということは決してないが、情報が不十分であることは間違いないので、なにか補足や訂正事項があればコメントしてほしい。

「宇宙・自然」が研究対象

理系の学部、具体的には、理学部、工学部、医学部などは、基本「宇宙・自然」を研究対象としている。医学なんかは、一見「人間」を対象にしているように見えるが、”人間の行動が起こした結果”を見る社会科学とは違い、”物理現象・化学反応の結果として人間の性質を見る”点でやはり医学は自然科学寄りである(様々なアプローチがあり、一言でどちらかを示すことはできない)。

理系の場合、殆どの学部学科で、理科の主要科目は必修で、数学も必修であるため、最初からフルスロットルで理系っぽい勉強をすることになるのだが、実のところ、まんべんなくやるのは最初だけで、研究対象が絞られれば絞られるほど使う技術も狭まっていき、使う技術の専門性は高くなるものの、そう怖がることもないだろうというのが所感である。工学部生より経済学部生の方が線形空間に対する造詣が深いということもザラにある。学部1年生や2年生で受けさせられた講義が難しくて理解できなくても、意外と何とかなるのが現実だったりする(理解できるに越したことはないが)。

理系学問の特徴は、「厳密性」と「実感」である。現在の科学(物理学)も、あるモデルを勝手に人間が設定して、そこで行われる計算について現実と辻褄が合うというだけに過ぎないわけで、ある理論が普遍性を持つということはない。しかし、数式によって裏付けされた厳密な証明が持つ意味は大きく、また、その検証に対し、最大限厳密さを求めることに、科学発展の一端があるのだ。文系のセクションで、数式に意味はない(現実性はない)とする論調もあると述べたが、理系はどうだろう。自然科学に関して言えば、数式には極めて偉大な意味がある。それは、仮にモデルを恣意的に設定できたとしても、自然を操ることはできないからである。そして同時に、かなり正確に自然を観察することができる(ようになってきた)から、その類の恣意性は最大限排除され、数式は確かに”そこにある”ようなのだ。歴史を振り返れば、自然を観察する精度が上昇するタイミングと物理の理論が大きく発展するタイミングは重なっており、徐々にその神髄に近づいているように思えてならない。この、机上の数式が、実際の現実として見えるという「実感」も、理系学問の特徴であろう。事実上実験のできない文系科目と違い、極めて精確に実験ができるというのが理系の面白さである。

また近年では、電子機械系・情報系の学部の発展も目覚ましい。これは所謂IT系の技術職に通ずるような、データサイエンスやコンピュータサイエンスを基軸とする学部である。学校でやったような理科が、前面に押し出されているようなものでもないので、特殊性がかなり高いと言える。まあ、実際のところ、理系と一口に言っても、学部や学科によって、扱う数学や理科の分野はそれぞれで、千差万別なのは初めからそうなので、理系を志望する学生は、そのようなマクロな分類とは違う世界が広がっているということをあらかじめ知っておいてほしいのと、学部生の最初の2年間は、何を研究することもできるようまんべんなく必修を組まれているということも頭に入れておいてほしい。

とにかく忙しい理系

理系学生の生活を考えると、「忙しさ」がとにかく目立つ。

先ほどから何度も言っているが、理系の学生には、学部の前半、数学や理科が”まんべんなく”必修として課される。必修だけで平日の時間割はパンパンになる。講義がパンパンに入った時間割、これが理系の時間割。厄介なのは、座学に加えて実験もあるということで、前節では実験ができるのが理系の強みだ!といったものの実際学ぶとなるとしんどいのが実際のところだ。つまり、古典力学の講義となれば、教科書を学ぶ座学と実験がそれぞれ1コマずつあるみたいなことだ。それが他の講義でも普通に行われる。

それだけではない。かなり難しいというのも難点だ。中学生の時、数学で三平方の定理を習う前に理科で三平方の定理を利用する問題に直面したことはなかっただろうか。高校生の時、ベクトルを習う前に物理でベクトルが導入されたことはなかっただろうか。大学でもそれが起こる。かなり高次元で。まだ習っていない(同時並行で講義が進行している)数学の知識が平気で使われることで、多くの生徒が苦戦する。というかそもそもその数学も講義を受けても理解できないほど難しいのだが…。

これでは地獄のような学生生活を送るようで怖くなるだろうが、安心してほしい。まず、全員が同じ状況であるということ。自分だけが地獄ではないので、焦ることはない。次に、意外と何とかなるということ。以前も言ったが、入試に合格できているということは、十分実力があるということなのだ。理系大学の方が留年率が高いという事実もないし、結局みんな器用にうまくやれるのだ。また、忙しいことがプラスになることもある。自発的に勉強するのが苦手な人は、まさにこちらに向いている。過密な授業スケジュールの予備校が肌にあっていた人は絶対理系の学生生活の方が得るものは大きいだろう。

また、理系は、比較的就職優位である。その理由はいくつかある。まず、希少価値の高さだ。大学生全体で理系は文系の半分以下しかいないため、希少価値が高く、また、その能力自体も企業にとって価値あるものであることが多く、就職に有利なことが多いのである。そもそも技術職の需要が大きく高まっているのも一つの理由であろう。他には、院進率の高さもある。理系の場合、全体でも6割強、上位大なら9割の学生が院進する。4年制大学卒業資格であるBachelor(学士)よりも、Master(修士)、Doctor(博士)の資格の方がより権威を持つのは当たり前である。就活の際にも学歴フィルターならぬ院進フィルターが存在しているようで、有名企業や海外大手は院卒の資格を重用するようだ。

次回 本題

長くなりすぎたので、次回に本題の「文系に数学は必要なのか」は回すことにする。それではまた次回。

注意:教育学部

学部に関して、一つ注意がある。単純な学問分野ではなく、卒業後の進路を予め想定するものである。その最たる例が教育学部であるのだが、これに関しては注意が必要であるということで、少し書くことにした。

医者になるなら医学部、弁護士になるなら法学部、みたいなイメージはあるだろう。あながち間違ってもいないのだが、このように、学部と卒業後の進路が密接なのは少数派である。であるからして、講義内容や学生生活についても、他の学部とは異なる部分も多い。法学部なんかは比較的柔軟で、法曹家にならないという選択も少なくないのだが、仮に弁護士になるということなら、学部卒業後に法科大学院という所に進学することになる。医学部はもっと顕著で、そもそも学士の期間が6年間ある。弁護士も医者も、国家試験を受けることになるわけだが、それに合格した後も、2年間の実地研修を必要とするため、長期的かつ過酷なキャリアプランとなる(リターンも大きい)。

教育学部はさらに難儀だ。なんてったって教育学部には2種類ある。教育大学の教育学部と、教育大学以外の教育学部である。前者は、学校の先生になることを前提とした教育機関であるため、1年生から実習が入ることもある。また、大学範囲の学問をやるというよりは、指導を担当する教科について、どのように授業すると効果的かという「授業研究」の形態の講義や研究が多い。学士4年の間に国家試験と教育実習があり、卒業後はすぐに公立校配属となるのが普通だ。一方後者の教育学部は、決して教員になることだけがテーマではない。勿論その道もあるが、多くの場合、キャリアプランを提示するというよりは、”教育学”の研究がなされていることが多い(結局その結果として教員になることも)。キャリアとしても教員だけでなく、教育委員会や文部科学省への進路も開かれており、やはり、この2種の教育学部は大きく異なる。ただ、どちらの場合でも教育学部だからといって教員になるという進路しかない、というわけではない(就職に有利か不利かはよく考えよう)。また、基本的に国立大・一部の私立大ではどの学部にも教員免許を取るための講義が用意されていて、教員免許を取得するということなら別に教育大学に行かなくても良い(ただし、小学校の教員免許や特殊な教員資格は教育大でしか取れない)。

大学の学部の中には、研究する学問だけでなく、キャリアプランをも意味するものもあり、その場合においては、普通の大学生とは違う大学生活を送ることになるということは予め理解し注意してほしい。余裕があれば、自分が夢見るキャリアプラン(弁護士・医者・教員など)については、大学進学前に十分調べて、その上でどうするか決めてほしい。何となくカッコいいから弁護士になろうと考え、とりあえず法学部に進学…というのはくれぐれも避けていただきたい。

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