ぼっちすけっちわんたっち
大学に入って丸1年と少しが経ったが、未だ友達と呼べる人間が学内にはいない。
そんな俺が語る大学で友達を作る方法と、大学で友達ができない理由と、その裏にある構造的な大学の問題。
大学で友達を作る方法
大学で友達を作る方法は単純だ。「見た目をよくする」と「自分から話しかける」だ。
前者は残酷なような気もするが、まあ当たり前と言えば当たり前だ。可愛い子、カッコいいやつにぼっちはいない(偏見)。見た目が良けりゃ人も来る。逆もまたしかり。オタクにぼっちが多いのはなぜかよく考えてみてほしい。ダサい服、だらしない体(姿勢)、不潔な髪型、コレのどこに他人がわざわざ歩み寄る要素があるだろうか。
まあ黙っていても人が寄ってくるような美形にはなれなくとも、とりあえず周りの友達多そうな大学生の服装と髪型を真似して、清潔さでも心がければスタートラインには立てるんじゃないか。
美形でない貴兄らの場合は、ここからさらにハードルを超えねばならない。人並みの見かけになったところで友達はできない。固定的なコミュニティの少ない大学で友達を作るには、能動的に行動せねばならない。自分から話しかけるのだ。最初は友達多そうな同性に話しかけるのが無難だろう。溌溂としたタイプの人間はコミュニケーション能力に長けていることが多く、こちらから話しかけても、向こうの話術で間が持つ可能性がある。勿論その場合相手も友達が多いので、すぐに距離を縮められない時には疎遠になることもあり得るが、それはそれと割り切って練習として活用しよう。
くれぐれもいきなり美形の異性に話しかけるのはやめよう。自分が美形の場合を除き、話しかけても醜いだけなのでできるだけやめておきたい。今までモテなかったやつが、いきなり大学デビューして人生バラ色なんてことはないのだ。「受験生になったら勉強するぞ」と思ってたあなた、受験生になった日にいきなり勉強時間ガクンと増えました?いきなり人間性や人生が変わるなんて、そんな甘い話はないんだね。
見た目小綺麗にして、明るいやつに話しかける、これが基本的な友達の作り方だ。
それでも、週に1回の講義が同じだけの人に話しかけるのはちょっと…という臆病な人もいるだろう。いや、いいんだ。そんなあなたも大丈夫。サークルや部活に入ればいいのだ。ここには、先ほど無いといっていた固定的なコミュニティがある。いつも顔を合わせる間柄なら、わざわざ勇気を出して話しかけなくとも、自然と友達になるということも多い。
大学で友達ができない理由
大学で友達を作るということは、簡単ではないが、それほど難しくないことのように思える。ではなぜ、俺が、あなたが、ぼっちなのか。そして、友達の少なくない君も、その友達が本当に友達なのか?大学における交友関係の本質的な構造に迫っていきたい。
友達ができない理由も実は単純である。「コスト」と「リスク」だ。
前節で友達を作る方法について述べたが、基本的には、友達を作る方法はこれ以外にないと思っている。SNSなどで知り合うというものもあるが、一部の人間のみであろう。とすると、友達を作るには、少なくとも、見た目を整えるための投資が必要なのである。服だけで考えてもバカにならない値段だ。今まで母親に服を買ってもらっていたようなオタクが、大学で友達を作るとなると、いったいどれだけの初期投資が必要か。さらに、必要な投資は服だけではない。美容室、整髪料やヘアアイロン、コスメ、その他色々と、初期投資を要する。さらに、人間の性質上、見た目の第一印象は何より重要であるので、「徐々に揃える」ということが許されないのも問題だ。最初から完成されていないと意味がないのだ。
金銭的コストだけではない。サークルや部活動に入れば、勿論、部費や雑費がかかるが、「時間」がかかる。サークルや部活動に入るということは、事実上、その活動に充てる時間分、自らの自由時間や勉強時間を投資するということである。
そもそも、友達がいると、金がかかる。交際費というやつだ。幸いなのか知らないが、このご時世、大手を振って遊ぶことはないのでまだいいが、やれ旅行だの、やれディズニーだのと遊べば、相当量の額が交際費に飛ぶことになる。
しかし、そんなの、さしたる問題でもないはずである。
気の置けない友人と、大学生活を謳歌する。そのための投資なら、何の問題もないはずなのだ。
だが現実はそうもいかない。金銭と時間の投資の末に、話しかけた、同じ講義を受けるこの明るい彼・彼女が、「気の置けない友人」になるかはわからないのだ。ここが根本的な問題で、大学で友達を作るには、この大きなリスクを払う必要があるのだ。
高校まででは、教室という単位で生活する以上、時間をかけてゆっくりと、クラスメイトの人間性を比較的楽に行える。簡単に言えば、徐々に知り合って、徐々に仲良くなっていくことが可能なのだ。
しかし、大学は違う。同じ講義をうけるその人がどんな人かという事前情報一切なしに話しかける必要があるのだ。サークルもそうだ。実際どんなサークルなのか、どんなメンバーがいるのか、そのようなことはわからないままに入るしかない。前述のような多大なコストを支払って、勇気を出して話した相手が、気の合わない奴であることはままあるのだ。
話しかけて、気の合わない奴だったからといって、ハイさよならとできないのもこの場合のリスクの一側面である。話しかけるということは、何らかの所属が同じということが普通だ。つまり、学内で歩いている人にいきなり話しかけはしないよねということだ。講義やゼミやサークルが同じだから話しかけたわけで、気が合わなかったとしても、少なくとも一定期間その人とは顔を合わせ続けることになるし、一度話しかけた以上、さすがに避けることも難しい。気が合わないと思いつつも、上辺だけの関係を継続させるほかなく、所属の規模が小さければ小さいほど、その必要性が出てくる。
よく考えてほしいのだが、同じ大学に通っているとはいえ、今話しかけようと思っているその人が、ビンゴで自分と気の合う人間ということは、通常起こりうるだろうか。否、そんなはずはない。気が合わないか、そこまでいかなくとも、気が合うほどでもない、という場合が殆どだろう。とんでもないギャンブルである。負ける可能性がかなり高く、負けた場合には、損を長期的に食うことになる。
コストを払っても、ギャンブルをしなければならないというのは、割に合わない、と考える人も少なくないだろう。
服に金をかけるくらいなら、ゲームを買おう、とか、サークルに時間を溶かすくらいなら、この本を勉強しよう、とか思っても何らおかしくはない。
逆に、友達が多そうなあの人も、実際は、ギャンブルの負けを支払っている最中なのかもしれないのだ。一見、友達多くて最高、みたいにふるまっていても、大学でできた友達がみんなして、そんな親友みたいに思えるはずがないし、もし思ってたなら相当芯の無いやつか尻軽かのどちらかだ。
外側から見れば、一人ぼっちで学食を食ってるやつと、大人数で食ってるやつだったら、後者の方が大学生活を謳歌しているように見えるが、必ずしもそうとは限らない。無論、一人ぼっちのやつが孤独に心打ちひしがれていることも、大人数のやつらが人生最大の幸福を享受していることもあり得るが、同時に、一人ぼっちのやつが自分の自由を勝ち取り、大人数のやつらが上っ面の関係性を維持するストレスを感じているかもしれないのだ。
こうであってくれたらな
ぼっちも、陽キャも、自分の選択のもとそうなっているのだから、それでいい、と結論付けることもできるが、俺は、何ともそれは腑に落ちない。確かに、リスクテイクを避けて自分の時間を確保したぼっちも、勇気を出して交友関係を構築した陽キャも、どちらの選択も尊重されるべきだが、そもそも、このような選択肢が、選択肢として設定されている構造が問題なのではないか?
ぼっちだって、心を許せる友人がいるなら、そっちの方が楽しいに決まってるし、陽キャだって、危ない橋は渡りたくないはずだ。いや根本的に、苦心して入った大学で、素晴らしい友人に出会えないのは、勿体ないだろう。
構造的な問題として、学生個人のパーソナリティが見えづらいというものがある。話しかけるまでどんな奴かはわからないということだ。見かけや雰囲気、僅かに見えた言動などから、少しは推測できるかもしれないが、その推測の持つ情報量がほとんど何の役にも立たないのは言うまでもない。
大学とは、いうなれば、POPも何もない本屋である。いや、もっとひどい。本の表紙には無地に短いタイトルと作者名しか載っておらず、裏表紙に1行のあらすじが載っているだけ。勿論、知っている作家などはいない。こんな本屋で、自分の人生の1冊となるような本を買いなさいというのが、大学で友達を作るということだ。これはあまりにも不親切だ。買い手にとっても、作家にとっても、本屋にとっても、何も良いことはない。作家が正しくアピールし、また書店員が適切に広告し、本屋がその環境を整え、買い手が十分な事前情報を基に、本を選ぶのがあるべき姿だ。そのはずだ。
つまり、大学も、そのような環境として機能するべきなのだ。
大学での基本的な活動は「講義」なわけだが、その多くはインプット偏重であり、教員の授業を一方的に聞くものが多く、この一方向的なスタイルでは、学生同士の横のつながりは生まれにくい。学生が何に興味を持っていて、どんな言葉づかいで、どんな人生を歩んできて、どんな未来を描いていきたいのか、そのようなアピールのチャンスは極めて乏しい。すべての講義に、とは言わないが、一定の、そのようなアピールの機会を設けたほうが絶対にいいと思う。
大学側も、勿論その構造的な問題に気づいていないわけではなく、だからこそ、新入生歓迎イベントがあったり、文化祭や体育祭があったりするわけだ。まあコロナで軒並み中止しているが…。だが、そのようなイベントではなく、恒常的な交流機会をつくるべきだと思うのだ。
俺個人の理想を語らせてもらうと、「ノーテーマのゼミ」があるといいなと思う。グループワークを設ける授業や、議論主体のゼミはあるが、これらはどれも監督者がおり、その監督者が一定のテーマ決定の圧力をかけている。アカデミックなテーマであることは勿論、英語で話さなきゃいけないとか、与えられたテキストの内容に基づくとか、そういう制約がある。これでは、学生個人の気質が霞む。だから、「ノーテーマ」のゼミなのだ。例えば、各週1人が議論したいテーマを自由に決めて、それについてメンバーで議論する。テーマは何でもいいし、事前準備も最低限でいい。テーマ選びだけでもその人の人となりはわかるし、事前準備がいらないからこそ低いハードルで意見できる。それ以前に、自分の学習や興味のアウトプットになるし、聞き手もまた新たな興味を喚起されることもあろう。楽しくワイワイするのも大学生だが、やっぱり同じ学門をくぐる以上、このような形で交友関係を築くのが健全だと思う。
与えられた環境で選択するしかない
まあ色々語ったが、結局今現在の我々は、与えられた環境で、与えられた選択肢のもと生きていくほかない。自分の時間を大事にするか、上っ面でも構わないから友人を作るか。
将来、一人ぼっちで勉強したことが自分を助けるかもしれないし、友達を作るために奮った勇気やコミュニケーション能力が社会で役に立つかもしれない、いや、その勇気が、あなたと一生の友人をめぐり合わせるかもしれない。
自分から行動を起こして、先ほどのような「ノーテーマのゼミ」を自主開催することだってできるが、こっちのほうがコストとリスクを要する。結局、いきなりめっちゃ気の合うやつが友達になるわけじゃないし、勉強時間と遊ぶ時間を両立するのも困難である。とりあえず、世の一般的な価値観に侵されることなく、自分の信念のもとに決定された選択ならば、失敗にはなりえないのであって、だからこそ、自分が大学でなにをしたいのか、この時代に何を得たいのかをよく考えるべきなのだ。
あーてか、やっぱりぼっちの僻みみたいな文章になってしまった。恥ずかしい。空しい。情けない。
別にいいもんね!寂しくないもんね!
コメント