【犯人は誰だ】大学生バカ過ぎ問題

雑談
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バカ大学生多すぎ問題

バカな大学生が増えている。大学生なんて言ってもバカばっかりだ。そう感じたことはないだろうか?

話がややこしくなる前に、ここにおける「バカ」が何を意味するのかを定義しておこうと思う。私が今回定義したい意味は2種類である。1つは「能力の低さ」である。そしてもう一つは「意欲の低さ」である。これはどちらも「大学生」という前提条件に照らして設定した。

「能力の低さ」とは即ち「頭の悪さ」である。頭の悪さ、といってもどこがその境目なのかは曖昧である。だが、殆どの大学で学士課程の前半部分の多くは「一般教養」の講義に充てられており、それはつまり、「大学生」の能力として、高く、幅広い教養が求められていることを表している。今回の議論では、まあ、かなり低く見積もって義務教育課程の学習内容が身についていないことを「頭が悪い」としたい。

「意欲の低さ」とは「学習意欲の無さ」である。勿論、大学には勉強以外にもやりたいこと、やるべきことはあるが、大学が教育・研究機関であることも揺るぎようのない事実である。ここでは、勉強へのやる気が「全く」無い状態にあることを「学習意欲がない」とするが、これでも甘く見積もった指標だと思う。わざわざ受験勉強をして、お金を払って大学に通って、それでも勉強をしないというのは、落ち着いた喫茶店で、コーヒーを注文した後、それを飲まずに、わざわざ七輪を持ってきて炭をおこして焼き肉をするほどの暴挙である。これをバカと言わずして何と言うか。

話を元に戻す。バカな大学生が増えていると感じないか?という話だ。

林修氏が自身の冠番組で東大生のレベルの低下に警鐘を鳴らしたのも有名ではあるが、今回取り上げたいのは、もう少し下の次元の話である。上の定義にもあるように、「大学生」と呼ぶのも憚られるほどのバカの話である。本当にバカな大学生は増えているのか、この問題の諸悪の根源は何か、この問題の何が悪いのか、そして今後の展望、という流れで、議論を進めていきたい。

本当に増えているのか?

大学生数と大学数の推移

上のグラフは大学・大学生数の推移を示している(文部科学省学校基本調査より作成)。増加傾向であることは間違いなく、大学生数は60年代、90年代に大きく増加している。とりあえず大学、及び大学生の数が増えたというのは間違いない。問題は、「バカ」な大学生が増えたかどうかだ。

日本の大学生に一斉に学力テストを課したり、学習意欲についてのアンケートをとったりすることも現実的ではない。教育学者の溝上慎一氏は京都大学高等教育研究開発推進センター在籍時にいくつか意欲的な論文を執筆されており、”大学生の学習意欲”について興味深いデータと考察を残しているものの、どれも決定的な説得力を持つものではない。というのも当論文で溝上氏も言及しているが、学習機会というものは極めて複雑な概念であるからであり、個人の中で、意欲的に取り組む講義もあれば、そうでないものもあり、そもそも大学構外に学習機会が溢れているのも言うまでもなく、また、何を学習というかも人それぞれである(特に大学生の場合”社会勉強”の存在意義は大きい)。

統計量を以て、定量的に大学生の学習意欲を分析するのは困難である。そこについては、この文章はなにも論文ではないわけだし、ともすれば恣意的な考察に代えたいと思う。

この節では、大学生の「頭の良さ」について考えてみる。単純に大学生のランク(頭の良さ)を比較するとなれば、「偏差値」を持ち出したくなってしまう。だが、これは極めて危険なのでできれば避けたい。偏差値のデータを出しているのは大手の予備校などが代表的だが、予備校によって誤差とは言えないほどのデータの違いがあり、偏差値である以上母集団の違いは無視できない。

現在の日本では、全体の8割近くが私立大学が占め、残りを国立と公立が半々に分ける。そして、低偏差値層に新規の私立大学が集中しているのは考えずともわかる。これはどの予備校の偏差値データを見ても揺るがない。しかし、全国の中で優秀な高校生が最難関の名門大学を志望するのは極めて自然であり、そうすると、高偏差値の大学群の顔ぶれが固定化されるのは当たり前で、新規の私立がいきなりランキング上位に現れるのはあり得ない話である。よって、これを以てもバカ大学生が増えたかはまだ曖昧である。

大学生の頭の良さについても、やはり定量的なデータを以て、確固たる主張を得るのは困難である。「バカな大学生が増えた」という批判が妥当かどうかも甚だ疑問ではある。勿論私もそう感じたことはある。Fラン大学についての記事や動画を見た時や、中学時代(地元でも有数のバカ中学だった)の同期が大学に進学した話を聞いた時などは、「バカでも大学生と名乗れるのだな」と思ったこともあった。

実質GDP推移

大学の数が増え、受験生にとって大学進学という選択へのハードルが低くなったのは事実だし、GDP推移をみても、日本人は裕福になって、子どもを大学に通わせる経済的余裕をもった家庭が増えたのも事実だろう。

大学は増えたものの、少子化は深刻であり、私立大学の約4割が定員割れを起こしているというデータもある。日本に「入るのが簡単」な大学があっても何らおかしくはない。

だが、バカが増えたと結論付けるのも早計だし、自らの態度も省みずそのような主張をするのも愚かである。どのような境遇であれ、もしそこに努力する人間がいるのなら、一面的なデータを持ち出して、やれバカだ、やれFランだと揶揄するのも至極失礼な話である。

さあ、前置きは長くなったが、私が今回話したいのは、「バカな大学生が増えている」という批判ではない。「『バカな大学生が増えている』という批判」に対する批判である。ここまでをもって、「『バカな大学生が増えている』という批判」は極めて脆い足場の上に成立していたものだと示された。勿論、バカな大学生が増えているというのもあながち間違ってはいないと思う。

この批判が成されるとき、その刃を向けられるのは、往々にしてその「大学生個人」である。しかし、これでいいのだろうか。仮に、能力が低い、もしくは意欲の低い大学生がいたとして、その責任は、彼個人に追わせられるのだろうか。私はそうでないと思う。彼にも努力不足や怠慢はあるにしろ、教育というものが社会事業である以上、「大学生の質」に関わる問題の責任は、国民誰しもが負うものであり、我々は常に問題意識を持って考えなくてはいけない。彼の無能を軽蔑したり、嘆いたりするのではなく、その諸悪の根源を暴き、問題の本質に迫らなくてはならない。ここからは、日本における「大学生」像の変化や、取り巻く環境の遷移について述べながら、宣言通り、問題の本質に迫っていきたい。

犯人は誰だ

近頃の大学生はバカだなんだという前に、大学生という生物、加えて彼らが生きる環境を知らねばならない。

なぜ大学に行くか

元来大学とは研究機関であり、故にそこに通う学生への教育も、研究者としての育成を指標としており、少なくとも学士課程の修了のためには一本論文を完成させねばならない。大学にとって、「研究」や「学術振興」というのは最も大きい存在意義であろう。しかし同時に、優秀な労働力を生み出すというのもまた、帝国大学が東京に作られた時からずっと、重要な存在意義である。

人が大学に通う理由も、同様にその二面性を持つ。限られたごく一部の人間しか大学に行くという選択をしなかった時代から、それは変わらない。とはいえ、昔よりも遥かに「就職のために大学に行く」という動機は強く働いている。

男性

左は厚生労働省「賃金構造基本統計調査」より作られた大卒初任給と高卒初任給の推移だが、大卒と高卒に賃金の差があるのは明らかである。大卒の平均年収は高卒のそれを200万円も上回るというデータもある。大企業やマスコミなどでは名門大出身者が優遇されるというのも定説であり、「就職のために大学に行く」というのは妥当な判断ではある。

女性

なぜそんな賃金格差が生まれているのか、というのも簡単な話で、企業は優秀な労働力にはお金を払うからである。賃金は能力の対価である。安い労働力が欲しいなら高卒から引っ張ってくればいいし、強い労働力が欲しいなら高い給料で焚き付ければよいのだ。

上でいう「能力」が即ち「学歴」になるわけで、これが俗にいう学歴社会を形成する。

勿論、能力が、学歴だけで判断できるわけではない。とはいえ、それでふるいにかけることは可能であるし、企業はそれによって十分コスト、つまり人材を探し育成するコストを削減できるのである。

それでいいのだろうか?

何が意欲を奪っているのか

収入は人生において非常に重要である。お金がすべてではないといっても、お金は大事だ。不安なく生きていくためにも、自己実現のためにも、賃金が良い企業に就職したいものだ。そういうわけで、日本でも多くの人が就職のために大学への進学を決める。また、最早大学に行くのが当たり前という価値観も今やおかしくはない。こうして徐々に大学で学習する、研究するという意味は薄れていく。大学生に「意欲の低さ」を感じる原因はここにあるのではないのか。

つまり、怠惰な学生が増えているのではなく、社会の構造が自然に、「勉強する気のない大学生」を生み出しているのではないか。

学歴が将来へのレールを決める切符である現在の日本では、名門の大学に合格するということは、優位なキャリアに就けるレールに乗るということを意味する。比較的卒業しやすい日本の大学制度も相まって、多くの受験生にとって、大学合格はある種のゴールなのである。大学受験用の参考書の多さ、大学受験用の予備校の学費を見れば、大学合格への熱望がわかる。

多くの大学生にとって、大学に通う動機は将来のキャリアのためであり、大学合格でゴールを迎えているため、大学での学習への熱意が低く感じられるのも無理はないし、これは何もその大学生個人が悪いわけではない。なぜなら、彼はこれまで大学で学習する意義について説かれたことがないわけだし、将来(就職)のために大学に行くように差し向けられているのだから。

なぜ大学に行けないのか

それはそれでいいとしても、それなら世の若者の殆どが大学進学を選んでもおかしくはないはずである。しかし、現在の日本の大学進学率は50%を超える程度で、OECDの平均よりも低いほどである。なぜか。

大学にはタダでは行けないからというのが一つの要因だろう。国立大学の学費は上がり続ける一方であり、私立大学の学費に関しては言わずもがなである。また、今の日本の大学の殆どは私立であり、一方で国立大学の受験競争は厳しい。これでは経済的余裕のある家庭のみが大学生を生み、そうでない家庭はまた、貧困層を再生産する。というのはあまりにも偏見にまみれているが、残念ながらこれを支持するデータも少なくはない。

ここまで悲惨ではないにしても、まだまだ日本には高卒であっても十分な労働力需要があるということでもあり(これには賛否あるだろうが)、大学進学への要望はそれほど高くないのかもしれない。

そうはいってもやはり歪みを感じてしまう。大学に行く目的がキャリアとなり、合格がゴールであり、経済的余裕がなければ限られたチャンスしか与えられない。企業は就活において大卒を優遇することで(つまり学歴で待遇を差別化することで)人材獲得のコストを削減すると述べたが、ある意味で企業が削減したそのコストは、結局他の誰かが背負っているだけなのではないか。例えば大学や予備校の高額な(になった)学費を払う家庭、意欲の低い学生を担当する大学の教員や彼らにお金をかけている(ことになっている)国家など。

学歴優遇という社会通念が激烈なファクターとして働いている現代の大学教育の構造には問題があると感じざるを得ないのである。

この構造のなにが問題なのか

勉強がそんなに大事か?

よく、「学校の勉強なんて将来何の役にも立たない」と言うが、まあ実際それは紛れもない真実である。また、そんな子どもの発言に、「勉強していい大学に行けば将来の選択肢が増えるんだよ」なんて諭す親や教師もいるが、それは回答になっているだろうか。これはまさに前節でいう構造が生んだ認知の歪みである。いつの間にか勉強が学歴を得るための手段として捉えられているのである。このような回答によってさらに認知の歪みは子どもに伝播しより一層広がっていく。

実際勉強なんて将来の役に立たないのだから、それで労働力としての能力を判断するのはズレているといってもおかしくはないはずである。無論 学歴による優遇を正当化する主張も多々あり、現代の日本において、その多くは間違ってはいない。だがもしそうだとしても、学歴による優遇を正当化するのは避けるべきであろう。バカな大学生が生まれる諸悪の根源はここにあるし、大学の研究機関としての存在意義は薄れる一方である。

学歴によって就活の待遇が異なるというのは、正当化こそできても、その有用性について主張できるのは企業だけである。社会にとって学歴優遇が有用かどうかは眉唾だ。寧ろ先に述べた通り、社会は企業が削減したコストを負わされていると考えられる節もあり、じゃあ学歴優遇を忌避することもまた正当な主張となりうるはずだ。

何も勉強がすべてではないし、その出来によって将来のキャリアまで決定されるのはおかしいだろう。学んだことの殆どを使うこともないのに。学歴と言う価値観にとらわれる若者も少なくなく、また一度受験競争に足を踏み入れるとコンコルドエフェクトの如くそこから撤退する選択を取り難いという問題もある。「勉強する気のない大学生」なる矛盾した生物を生み出すくらいなら、学歴優遇は撤廃すべきではないか。

勉強も結構大事だ

労働者にとって学校の勉強は大して大事でもないが、研究者にとってはそれがすべてだ。

やはり大学の存在意義は「研究機関」としてのそれが大きい。大学それ自体が求めているのは研究・学習意欲のある学生だし、国家が大学に求めるのも同様のものであるべきだ。これまでの議論でもわかる通り、学生にとって大学で勉強するモチベーションはそれほど高くないというのが普通で、多くの人にとって大学受験のモチベーションを大きく下回っている。長い目で見れば、学歴優遇の構造はこの大学での勉強への低モチベーションを定在化させる危険があり、いわば大学という研究機関や若者の研究者精神を廃れさせる可能性まである。

研究者は国家、いや国際社会にとって重要な存在である。まあ別にその重要性がわからない人はわからないでもいいと思う。だが、国家が研究者を蔑ろにするのは危険極まりない。

事実日本は研究者に対する賃金の待遇は劣悪極まりなく、研究者の流出が度々取り沙汰されるほどだ。国立大学の学費が上昇傾向にあることや、国家予算に占める教育関連費の割合が低いのも、日本が研究者を重要視していないと批判される原因である。しかし、悲しくはあるが、日本にお金がないということに対しても目を背けることはできない。

ならばどうだろう。大学の数を減らせばいいのではないのか。というのは幾分バイオレンスな提案ではあるが、真に学習意欲のある人の居場所として大学が存在すべきだろうという主張に還元できるものではある。学習意欲の無い学生のための就職予備校と化している大学(研究成果のない大学)の存在意義を問いたいのである。そこに割く予算を削れば、大学の完全無償化も夢ではないのではないか。私の予想では、学歴優遇が禁止され、大学が真に研究機関として機能すれば、大学生の数は激減するのではないかと思う。もしそうならなおさら完全無償化も近づく。

(一応反論を予想して先回りするとして、上の提案をもう少し詳しく述べるがこの段落は飛ばしてもらっても構わない。ただ単に大学の数を減らせば、研究者の席も減るということになってしまい、結局本末転倒となってしまう。ただ、まず上で述べたかったのは大学無償化の可能性であり、その方法として「大学生数の軽量化」を提案した。大学生のいなくなった大学は研究所になるなり、研究成果がないならまた別の道を探らねばならないかもしれないが、つまるところ、大学生数の減少が、大学数の減少としなくても良いと思うのである。そもそも大学における「教育」の側面はしばしば問題視されるほどであり、あってもなくてもいいくらい劣悪なものもある。大学教員は教育の専門家ではないのもそうだし、先に登場した溝上氏の論文でも『日本の大学教官は教育に熱心でない』と批判されている。大学では研究室でのゼミさえあれば十分といっても過言ではなく、教養や専門科目についての学習は独学もしくは別途外部機関を設立しても良いと思う。また逆に一部の大学が講義をパブリックに公開するというのもアリだと思う。それに伴う単位認定を廃止し、研究室配属時に筆記試験でも設けることに代えれば研究者の負担も幾分か削減できるのではないか。)

大学の存在意義をもう一度見直すとともに、研究職への待遇を向上させる。これは国家にとっては重要な選択であり、そのタイミングを間違えれば、この歪んだ社会構造が教育・研究を侵食するのを食い止められないかもしれない。

まとめ

「バカな大学生が増えている」というイメージはあながち間違いではないのかもしれないが、極めて不安定な根拠に基づく批判であった。また「バカな大学生」といっても、その「バカさ」の責任は彼個人に還元できるものではない。多くの若者にとって大学へ進学するのは就職のためであり、このような学歴優遇社会の構造によって、大学生は、バカかどうかは考えないにしても、大学合格がある種のゴールと認識し、大学での学習意欲を失っている。このような歪んだ社会構造を作り出した我々にこそ責任があるのであり、企業による学歴優遇や大学の存在意義を国家の一員としてもう一度見直すべきなのである。

以上が要約である。

固定化された価値観が変化するのにはとても大きなムーブメントかとても長い時間が要求されるのであり、このような主張は土台無理な点が殆どではある。だが、問題意識を持つことが重要なのであり、自分の能力を棚に上げて「大学生(個人)をバカ」と批判したり妬んだりするのも愚かな話である。問題の本質と、その裏にある構造的な歪みを追求していかなければならなのではないか?もしこの議論が、あなたにとってその動機付けになったのなら嬉しいし、この議論についての反論・批判があれば是非欲しいものだ。

教育とは、学問とは、自由への翼。そうあるべきであり、我々はその自由のために責任を負い、いつまでも考え続けなければならない。

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