祝 鬼滅の刃2期決定?
遂に、鬼滅の刃のアニメ2期が、「遊郭編」として2021年に開始されることが、2月14日に発表された。
さあ 現れたのはこの「遊郭」というワードをやり玉に挙げる者たちである。
つまりは、子どもが見るものなのに、風俗街を舞台とするのはどうなのか。ということである。まあ、「遊郭」という概念が、子どもに悪影響を及ぼすのではないか、という懸念は、100万歩譲ればわからなくもない。”「遊郭ってナニ?」って聞かれた時のために答えを用意しなければならない”という旨のツイートを議員がしていたのには思わず吹き出してしまったが。
もし真面目にそんなことを心配しているなら、相当なアホだと、私は思う。理由は2つだ。遊郭という舞台設定が及ぼす悪影響などないということと、そもそも遊郭というものに「?」を持つ子供など一握りだということだ。
アニメは性犯罪者を生む?
まず、特定のメディアが個人に与える影響など大きくはない、というのが私の見解である。よく性犯罪者にアニメ(特に萌え系)の趣味があったとして、アニメは害悪だというような言説がワイドショーなどで見かけるが、あれは明らかなサンプルセレクションバイアスである。そもそも犯罪者なんて一握りであり、その中でさらにアニメが好きな犯罪者となればさらに一握りだ。それを少数の犯罪者を挙げてアニメを害悪としているわけで、完全な印象操作であるのは言うまでもない。この「アニメ」の部分を「黒人」に変えれば一瞬で差別問題になるのに、なぜアニメなら許されるのか。こんなことを言っているワイドショーの方がはるかに害悪だと思うのだが。
少し話がずれたが、私が言いたいのは何らかのメディアが個人に致命的な悪影響を与えるなんてことはない、ということだ。これを見たからバカになるとか、これを見れば賢くなるとかそんなものはないし、そう考えればどのようなメディア・作品に対しても悪影響及びその逆の可能性を完全に排除することはできないのだ。悪影響とか考えるなんてアホらしい以外の何物でもないし、受け取る側の問題でしかない。まあ何を悪影響とするかは人それぞれだが、じゃあ逆に「遊郭」という概念が子どもに何の悪影響を与えるというのか。
子どもの好奇心は大して強くない
というかそれ以前にだ。子どもが「遊郭」という概念を認知できるだろうか、というのが、今回真に主張したい内容である。
よく、子どもは好奇心旺盛だというが、本当にそうだろうか。私はほとんど感じたことがない。寧ろ、子どもに感じるのは順応力の高さだ。苗字や名前という概念に対し、疑問や質問を経由することなく、自分の名前や幼稚園の友達の名前を覚え、「バレンタインって何?」という質問をせずとも、2月14日に向けてチョコレートを作る女の子も少なくないだろう。その証拠に、「義理」という意味を知らなくても「義理チョコ」を作っている女の子に人生で何度も会ったことがある。子どもは自分のコミュニティの中に未知のものがあっても、すぐに順応し、咀嚼する。ある意味、未知のものだらけの子どもにとって、日常とは順応のための死闘である。子どもにとって順応できないことはコミュニティからの疎外を意味するからである。そんな子供に、疑問を持つ余裕などあるだろうか。
また別の視点に立って考えよう。「疑問」とはどのようなプロセスを経て生まれるのか。疑問は、好奇心によって無尽蔵に湧き上がるものではない。いや、幼ければあり得るのかもしれない。
「空はなんで青いの?」「キリンはなんで首が長いの?」「なんで時計には12時までしかないの?」「なんで夜にはパジャマに着替えるの?」
と、疑問は湧き上がる可能性もあるのかもしれない。だが、答えを得られることは稀である。試しに、上の4つの疑問に答えてみてほしい。ちゃんと厳密に答えるのであれば、1つ目の疑問の時点で、「レイリー散乱」という高校・大学レベルの物理学を持ち出さねばならず、2つ目には進化論、3つ目には天体や暦についての造詣、4つ目には生理学や民俗学の知識が必要とされるわけで、それらに答えられる大人など、本当に僅かであろうし、そのような説明をしたとして、幼い子供にとってそれが適切な説明ではないことは火を見るよりも明らかである。
多くの場合子どもが上のような疑問を大人に投げかけたところで、「そういうものなんだ」とか、ユーモアにあふれた人なら少々のジョークを交えたものあるだろうが、結局明確な答えを得られることはない。そこで、子どもが理解するのは、世の中には「わかる」ことと「わからない」ことがある、ということだ。「そういうもの」なら考えてもわからないから。ただ、これは至って健全な成長のプロセスである。この理解がなければ、概念に対する「懐疑」と「理解」のフレームワークは形成されない。「わかる」と「わからない」の線引きが知性の形成の第一歩なのである。
そして、人が疑問を持てるのは、「わかる」と「わからない」の境目に対してだけなのだ。
まず、人は「わからない」もの(さらにはその向こうにある「わからないと気づいていない」もの)には疑問を抱けない。では、どんな時に疑問を抱くのか。それは、「わからない」ものではあるが、「わかる」のではないかと予測されるものがある時だけだ。純粋な疑問、つまりは概念への疑問とはこのように生まれる。簡単に言えば、「遊郭」のような未知の言葉・概念と出会ったときに、自分の中に「遊郭」に関連するような知識がなければ、「遊郭とはなんだろう」もしくは「遊郭とは○○のようなもののことだろうか」というような疑問はわかず、「遊郭とはこういうものか」と順応するしかない。
疑問を抱くという行為は極めて高度な営みなのではないか。子どもにとって「遊郭」とは単に意味の分からない言葉ではない。グーグルで意味を検索したとして子どもに遊郭の意味は分からない。そうだな、例えば、読んでいるあなたにとっての「モーダルインターチェンジ」である。暇なら是非検索してほしいが、検索したところで意味が分かるはずがあるまい。子どもにとって「遊郭」は疑問の対象ではない。未知の言葉や概念に対する疑問は、既知の言葉や概念に対する理解の量と深さがなければそもそも生まれないのである。
結局、本当に好奇心旺盛なのは、子どもよりも、学習意欲があり知識が豊富な大人の方なのではないか、と私は思うし、少なくとも私の経験上はこれは正しい。
もし「遊郭ってナニ?」と聞かれたとしても、「さあね」とか「こういうものなんだよ」とか言って躱せばいい話で、そんな疑問に対する答えを用意するくらいなら、空の青さを説明するために物理を勉強した方がよっぽど建設的だと思いますけどね、栗下さん。
とにもかくにも、鬼滅の刃がまたアニメで見れるのはこの上なく喜ばしい。騒ぎたいだけのポリコレの皆様には他所で静かにやってほしいし、政治家の皆さんも鬼滅の刃に乗っかって売名をするなんて愚かなことはやめていただきたいものだ。
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