【才能とは虚構である】俺の才能って何だ?

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「才能」とはなんだろう。

もし俺の中にそれがあるとして、それはなんだろう。もし誰かの中にそれがあるとして、その正体はなんだろう。

昔から「才能」という言葉に懐疑心を抱いていた。その得体の知れない輝きを、直視できない輝きを、いつだって暴こうとしていたし、自分の中にもあるはずと身の程知らずの期待を募らせていた。

振り返ってみれば、俺の人生の半分は、自分の中にある才能を信じていて、もう半分は自分の凡才を自覚し失望していた。自己肯定感の低い人間ではないとは思う。様々なものに恵まれていた人生だったとも思う。感謝こそあれど不満はない。

劣等感に打ちのめされながらも、僅かに感じた可能性には賭けた。しかし、その可能性を何とか萌芽させ、高みへ目指せど、幾度も劣等感に打ちのめされ続ける。上には上がいる、とかではない。「上」にすら行けない。どれだけの時間を費やしても、届かないように感じる。

俺の中に才能はあるのか。もしあるとして、それはまだ気づいていない何かなのか。

きっと俺にも何かの才能があると信じて生きていくとして、それでいいのだろうか。その予兆すら感じさせなかった今までの人生をすべて忘れて、自分の才能を妄信することが幸せなのだろうか。

そんなはずがあるものか。

俺はそんなおめでたい頭を持ち合わせてなどいない。愚かさに身を預けるくらいなら、自分の無力を直視してのたうち回るほうがましだ。

「才能」。その正体を絶対に暴く。絶対にこの霞みがかる懐疑心を解消する。

現時点での思考を残そうと思う。

才能とは、虚構だ。

才能などどこにもない。俺の中にも、誰の中にも。

他者の中に才能を見出したとしても、それはあくまで「自分にはできないことをできる能力」に過ぎない。自分の中に才能を見出したとしても、それは言わずもがな無知である。

つまり、どちらにせよ才能とは「努力の放棄」だ。その正当化のための免罪符として、生み出された都合のいい虚構だ。生まれ持った特別なものとして「才能」を定義すれば、自分の無力から目を逸らせる。できないことがあったとしても、自分の成長に天井を感じても、自分は特別ではないと慰めることもできる。神に愛された特別な誰かを妬み、もしくは羨むことで、それでその劣等感から解放される。

才能という言葉を使う時、それはいつでも自分を守るためのものだ。その浅ましさこそ、懐疑心を呼び起こした張本人だ。

何かの能力に長けた人間は誰もが苦しみを秘めている。わかりやすいのは努力である。能力に長けた人間は多くの場合それ相応の努力をしている。しかし、努力の影もなく卓越した能力を携える人間もまた存在する。ただ、その人が、何の苦しみも抱くことなく、ただ能力に恵まれているということは、ないのである。卓越した人間には、卓越した能力には、常に「余裕」が宿る。凡夫には、彼が持つ苦しみを慮ることすらできないのである。知識がなければ、わからないことにすら気づけないのと同じである。強い人間には苦しみが見えない。いや、苦しみを完全に内包できるからこそ強い人間なのである。そしてそこにたどり着いたということは、その苦しみから逃れようとせず、真っ向から立ち向かったことに他ならない。

ともすれば、「才能」という言葉を他者に評価として投げかけるのは失礼なのではないだろうか。

もだえ苦しみその先に勝ち取った能力を、生まれもって授かったものと評するのは、失礼ではなかろうか。己の力で手に入れたものを、あなたはラッキーだった(だけだ)ねと言われて、納得できるだろうか。それも、その裏には自分を守るという魂胆が隠れている。

才能という言葉で、自分を守るのは一向に構わないが、それを他者に投げかけるのはやめておくべきだろう。己の胸に留めておくべきだ。

「才能」を感ずるような卓越した能力に直面したとしても、生まれもった卓越性などはありはしない。いつでもそこには苦しみが伴い、即ち、勝ち取った卓越性しかない。勿論、生まれ持った優越性は存在する。がしかし、それは卓越性ではない。もしそう思うなら、それはあなたの物差しの目盛りが粗いだけだ。もしくは、あまりにもあなたが自分の無力から目を逸らしたがっているか。

そもそも、人間の能力を測るということはできるのか。

人の能力を測る、比較する時、往々にしてそれは恣意的な変数設定による。例えば、「知能」という能力を測ろうと、「学校の定期試験の点数」というデータを持ち出したとして、それはあくまでテストの点数という変数で無理矢理 知能を測ろうと試みているだけだ。知能が、そんな一つの変数で定義できるものだとは誰も思わないだろう。「100m走の競技力」という能力に、ただ「タイム」を持ち出すのも違う。そのタイムにどのような経緯で到達しているのかも重要だ。同じタイムだったとして、1年で1秒縮めた選手と、1年で0.1秒縮めた選手では、意味が違う。

「能力」というのは、不確かな概念である。直感にそぐうように定義することは極めて困難である。陳腐な変数設定を持ち出してしまうのもわからないでもないが、劣等感も優越感も、その不正確な変数設定が生み出す。時として特定の変数設定に固執することは、自信を奪ったり、逆に自分の無力に盲目的にさせたりする。変数のチャネルを様々持つことが、より良き人生をきっともたらしてくれるだろう。

人間とは弱い生き物だ。人間とは愚かな生き物だ。人間とはつまらない生き物だ。

だが同時に、人間とは自由な生き物だ。何者にだってなれる。

才能とは「努力の放棄」だ。他者に才能を見出した時、それが成長の限界だ。自分に才能を見出した時、それが知覚の限界だ。

何物にもなれるはずの人間を、何物にもなれない凡夫たらしめているのは、自分に他ならない。

誰かを凄い、と思った瞬間、もうそこには辿り着けない。彼が到達した地点を別世界と定義して、そこへ向かっていく努力をやめることを正当化すれば、1歩だってもう近づくことはできない。自分を凄い、と思った瞬間、もう上を見上げることはできない。自分が到達したところを頂点と定義して、下を見ることで安心を得ても、日に日に世界が狭まっていくだけだ。

俺は、「才能」なんて浅ましい言葉を使うなと言いたいのではない。誰だって思い描く自分になれるんだよなんて聞こえがいいだけの自己啓発がしたいのでもない。

「才能」という言葉、「才能」という文化、その輝きに隠れた大事な何かに我々は気づけていないのではないか?という問題提起をしたいのである。そしてここに書かれた文章はその問題への現時点での俺の解答である。

これは「才能」という言葉だけには当てはまらない。言論や文化とは本質的にこのような機構を内包しているはずだ。表層のみを信じても、振り回されるだけだ。我々はいつでも、その内側、その真髄を追求しようとしなければいけないのではないか。もし俺の考察通り、「才能」という言葉が、能力を勝ち取った人の苦しみを蔑ろにしたり、可能性の芽を摘んだりしているのだとすれば。

答えはない。真髄には辿り着けない。それでも、我々は考え続けなければいけない。

我々にはそれができる。

それこそ、誰もが一様に授けられた才能なのではないだろうか。

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