人の命の重さってどれくらい?

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質問箱で募集したシリーズ

質問箱で議題を募集した。今回もそれについての回答である。現在も引き続き募集中なので、何か語って欲しいことがもしあれば是非。

今回回答するのは「どうして自らの命を絶ってはいけないのですか?」という質問である。併せて「なぜ人を殺してはいけないのか?」という議題についても述べることとして、今回は「人の命の重さ」というテーマについて書いていく。現代的な哲学の見地に立っていえば、「人の命」や「死」というような抽象的で知覚しようのない概念は議論すべきでないし、上記の質問や議題に対し論理的な回答は存在しえない、ということになるのだが、それを踏まえた上で、私の個人的な意見を述べたい。

生物学的な視点

最も原初的な地点から考え始めようと思う。人間が論理的思考や道徳や倫理というものに触れる以前から「他者を殺してはいけない」「自らの命を絶ってはいけない」という概念が存在していると仮定する。すると、人間が人間である以前に生物であるということを考慮すれば、これらの概念は生物的本能によるものだと考えられる。

ともすれば、ある程度納得のいく回答が得られる。生物として「生存」「繁栄」という目的を達成するために、同族を殺さない、自殺をしないというのは合理的選択である。生物的特性として「社会性」を持つヒトにとって、種の繁栄はつまりコロニーの繁栄であり、ゆえに、個体数がある程度大きいほうが有利と考えてもおかしくはない。いわば本能的な仕組みとして、同種を殺す、自分で命を絶つという行為に嫌悪感を持つようになっているのではないのだろうか。

この回答を認めれば、同時に「なぜ殺人は違法なのに、戦争や死刑が行われるのか」ということについても答えを出せる。殺人を認めないのはコロニーの繁栄に不利益だからであり、同種であったとしても他のコロニーを攻撃することは、決して自分たちの繁栄には不利益ではないし、利益がある場合は積極的な攻撃の動機を見出しうる。これが戦争をする理由である。社会性を持つ生物の性質として、これはおかしなことではない。アリやハチというようなコロニーを形成する生物にも同様の性質が見られる。戦争は、社会性という生物的性質から必然的に導かれる本能的行為というわけだ。死刑についても、コロニーの繁栄に不利益な個体を間引くのは合理的だと考えられるから認められるわけだ。

つまり、自分であろうと他人であろうと、故意に命を奪ってはいけないと考える根拠は、生物的本能から導かれる嫌悪感にあるのである。勿論「種」や「コロニー」というようなマクロな範囲での話ではあるが、フロイトのいうイド(無意識)のように人間社会全体にそのような感覚は共有されているのかもしれない。

気を付けてほしいのは、これは私個人の想像の話に過ぎないということだ。生物学の定式としてこのような議論は存在しない。生物の性質を都合のいいように切り貼りすればこのようにも考えられるというだけの話に過ぎないので、そこには細心の注意を払っていただきたい。

倫理学的な視点

生物学的視点に立ち、ある程度納得のいく回答を得たとして、しかしながらそれでも、それは現代の我々の感覚にはうまく噛み合わない気がする。先ほども言ったように先の議論はあくまでマクロな範囲の話である。個人の存在が尊重される現代にはどうも馴染まない。また、人間の動物的な側面を認めたくないきらいのある現代人にとって、「本能」で議論を片付けられるのは不快なものかもしれない。次はより現代的でかつ小さなスケールでの議論を進めたい。

ヒトは他の生物よりも「理性」の機能が発達していると考えられている。一旦それを認めたいと思う。理性の機能があるからこそ、現代の人類は戦争を否定しているし、死刑制度にも否定的な姿勢が顕著である。そして文化の形成と進展の中で、「倫理」という眼鏡を手に入れ、その価値観から人の命を重んじる概念は定式化されたのである。(すでにあった本能的な嫌悪に理論を後付けしたとも考えられるが)

多くの文化圏で、人類は「命」というものを「授かりもの」として捉えていた。だからこそ尊く、だからこそ人間の欲望で好きにしていいものではなかったのである。一昔前まで人類のほぼ全てにとって「神」のような大きな存在は当たり前であり、だからこそ「天からの授かりもの」という捉え方が広く認められていたのであろう。無神論者が増えつつある現代においても「人権思想」という形で古来の命の捉え方は伝承されている。

人の命は尊いから、みだりに奪ってはいけないのである。

なぜ尊いのか。過去は「神」のような巨大な存在からその理由は保証されていたわけだが、現代においてはそれはいささか無理がある。現代的な個人主義に則って考えてみよう。個人というスケールで考えてみれば、自分の命は大事であろう。自分の命は尊いであろう。何の理由もなしに命を奪われるのは嫌なはずだ。自殺を考える人にとって自分の命は大事ではないのかもしれないが、例えばその人の家族や友人といった近しい人にとっては、彼の命は大事であろう。彼の命は尊いであろう。ミクロな範囲で考えてみても、命は尊いのである。(なぜ自分の命は大事なのか?という疑問について考えると、無限の疑問を生み出しかねないのでこの段はこの辺で締めさせていただく)ある種自分の命や大切な人の命を守るために、人の命を奪ってはいけない、自分の命を絶ってはいけないという道徳観が形成されているとも考えられる。(これは私の友人の考えであり、私もそれに賛成しているため引用させてもらった)

社会学的な視点

さらに現実に即して議論していこう。

最初にも言ったが、「人の命」という概念は抽象的であり、そもそも論理的な思考の対象にはそぐわないものである。とはいえ、社会の機能を考えた時には、この抽象的な概念を無視することはできない。その最たる例が法律である。人類の論理性の集合知ともいえるような法典の中には「殺人の違法性」とその刑罰について書かれている。

社会的には、やはり殺人はいけないことなのである。しかし、言うまでもなくそれ(法典)は不完全である。なぜ殺人がいけないことか、ということにことに対して普遍的な真実などないのだから。ほとんどの人は他人を殺したりはしないが、それは殺人が違法である論理を理解しているからではなく、殺人を犯す理由がないからである。殺人を犯す理由さえあれば、誰だって殺人犯になりうる。その証拠に殺人を犯す人間は多種多様であり、また戦争に出兵する兵士のことを考えても、これは妥当な解釈といえよう。刑罰についてもその不完全性は明らかである。命の重さが平等なら多数の人間を殺した殺人犯を死刑にすることはできないというジレンマを生む。殺し方やその対象によって刑罰の重さが変わることについても論理の普遍性を見出せない。

現代においては、人を殺してはいけない、その価値観がただそこにあるのであり、殺人を禁じる法とは、得体のしれない恐怖(これは殺人者への恐怖というより、ある意味自分の中の殺意への恐怖なのかもしれない)への抵抗としての、妥協的なコミュニティの同意なのである。現代においても人を殺してはいけない理由は社会的不利益から導かれるのであろうが、しかし継承されてきた倫理観と現代の法典は所々整合性がとれておらず、そのせいで人を殺してはいけない本質的な理由は極めて掴みにくくなってしまっている。勿論これは解決しようのない問題であり、価値観が多様化していくことを考えれば、より一層混迷を極めることもあり得るだろう。

自殺がなぜいけないことか、という問題はさらに難しい話である。殺人と異なり違法性はないため、強い抑止力はない(罰しようもないのだが)し、どう生きるかの自由を最大限保証する現代社会の価値観から、その延長線として、どう死ぬかの自由も認められてもおかしくはない。(どう死ぬかの自由となると安楽死の話に近くなるが)仮に「自殺はいけないこと」だったとしても、それは自殺志願者にとっては何の意味もないことである。

だが、「なぜ殺人はいけないことなのか」「なぜ自殺はいけないことなのか」という問題は、そもそも答えを用意する必要のない話だと私は考えている。(無論現状必要な抑止力としてそのような道徳観や法律は不可欠ではある)殺人犯や自殺志願者は、生まれながらにそうなのではない。生きていく中で、段々とそうなっていくのだ。充足した者が人を殺すはずも、自ら命を絶つはずもないのである。いじめが原因で自殺した人のことを考えてほしい。自殺がいけないことと説くよりも、いじめがいけないことだということを説くべきだろう。失業で路頭に迷い自殺した人のこと考えてほしい。自殺がいけないことと説くよりも、失業補償について議論すべきだろう。殆どのケースで、殺人や自殺には、別の社会問題が隠れている。殺人者は悪かもしれないが、それを生み出した社会にも責任はある。さらに言えば、自殺者は全く悪ではない。そう追い込んだ存在が悪である。そういう意味で自殺者という表現は間違っている。自殺者がいるのではなく、殺人者と被害者がいるだけである。

「なぜ殺人はいけないことなのか」「なぜ自殺はいけないことなのか」ということについて考えるより、「なぜ殺人者が生まれるのか」「なぜ自殺者が生まれるのか」ということについてこそ、我々は今考えるべきなのかもしれない。

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