今回は不倫について考えてみる。近年では恋愛や性別についてはかなり広く自由が認められ、ゆえに豊かな多様性が尊重されると同時に、価値観も様々になった。長きにわたり道徳的悪とされてきた「不倫」について改めて私の意見を述べたい。とはいえ、これから述べるのは信憑性を保証できる専門性のあるエビデンスを持たない一個人の意見である、ということを念頭において読んでいただきたい。
結論から述べると、不倫は「当事者間の問題」であろう、というのが私の意見である。
不倫を含め、恋愛や結婚生活を進めていく上で、そこに付随する問題は、基本的に「当事者の問題」であろう。当事者側も、第三者側も、そのプライバシーを守ろうとするべきだと、私は思うし、他人が口を突っ込むべきではないと思う。パートナーが「不倫が嫌だ」、という価値観ならしないべきだと思うし(もしくは価値観に齟齬があるなら話し合う)、容認してくれるパートナーなら好きにしていいと思う。最初にも述べたが、価値観は人それぞれであり、不倫ということに関して言えば、容認するかしないかの価値観は人それぞれ尊重されるべきだと思う。現代において、不倫というのは絶対的な悪ではない、と思う。
つまり、まさに週刊誌の不倫スクープがその最たる例ではあるが、不倫についての問題に対して他人がとやかく口を突っ込むべきではなく、「個人の価値観の問題」の範疇としてとらえるべきだろう、というのが、まず根本的な私の立場である。無論、当事者側も、それによって他者に迷惑をかけてはいけないわけで、あくまで「個人の価値観の問題」の範疇にとどめることに努めるべきである。例えば、不倫を否定する人が多数派の集団、ここでは企業とするが、その社内で不倫をするようなことがあれば、著しく社内の風紀を乱すことになるし、大勢の人を不快にさせるであろう。その辺の節度は守るべきである、というわけである。まあ、この部分の議論を認めれば、社会的には不倫否定派の層が圧倒的に多いことは明らかなので、「不倫はすべきでない」という結論が導かれてしまうのだが(不倫をする、ということはその相手が存在するわけで、不倫の主体二人が所属するコミュニティは膨大な数であるため、大勢の人を不快にさせ風紀を乱すことは避けられないから)。
そもそも不倫がなぜ悪者のように扱われるかを考えてみれば、それは一夫多妻制が否定され、一夫一婦制の世になり、また男尊女卑の思想が是正されていく中で、徐々に徐々に築き上げられてきた貞操観念によるものであろう。私が思うに、不倫を悪だと思う価値観、さらに言えば、不倫を「不倫」と定義する価値観は、決して普遍的なものではなく、現代に特殊的に発生した社会的な通底観念に過ぎないと思う。生物的な本能からは、このような価値観はどう考えても導かれえないし、近年の執拗な不倫スクープの高まりを見るとそう感じてしまう。(個人の意見です)
確かに、私も現代に生きる人間であるが故、一人の思い人と一生をそげるのは確かに美しいと感じるし、逆に幾人もの人と肉体関係を持ったり浮気でパートナーを傷つけたりしているような人はだらしないと感じる。でもこれは論理的な帰結として導かれる感情ではなく、そんな価値観が支配する社会の中に生きてきたからこそ自然に身についたものであって、その程度のものに過ぎないと自覚している。だから、不倫が悪だということを全く納得できない人がいてもおかしくはないだろうと思う。社会に蔓延るこのような支配的価値観を感受する能力が鈍い人は一定数存在するということは理解しているので。
そうは言ってもやはり、私は不倫を否定しきることはできない。人間はたった一人の人だけを愛せるように設計されていないと思う。それほどに人は魅力的で、魅力に敏感で、欲望に忠実で、愚かである。芸能人のように社会的地位やルックスに恵まれ、その上で綺麗な人との出会いにも恵まれている人生だったら、自分だったら我慢できるかな、と不倫の報道を見るたびに思う。人間とは生まれながらに清らかではない。もし、一人の人と人生を添い遂げるようなことがあれば、それはその人が清らかなのではなく、そうしても構わないと思わせ、実際にそうさせたその出会いと、彼らの人生が尊いのであり、単なる偶然に過ぎず、そういう意味で、誰しもがそのような一生を遂げる可能性もあるし、逆に欲望にまみれた人生を歩む可能性だってあると思う。
ばれなければ不倫でも浮気でもすればいいと思っているし、もう少し社会は不倫に対して寛容になってもいいのではないかな、とも思う。ただ、愛する人を悲しませるような行為に対し、何ら理性的な判断を下そうとする努力もせず、パートナーを傷つけるようなことがあれば、それは紛れもない悪である。パートナーお互いに、何が嫌で何が幸せなのかを理解しようとする歩み寄りとそしてそれに付随する行為、それだけが重要なのであり、「愛」という言葉に帰着するような人間の営みについては、やはり当事者の問題、という範囲を逸脱しないべきなのである。
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