利益の生み出し方知らなすぎ
現代に生きる人間は、常に「価値」について考えているといっても過言ではない。いや、「価値」というものにとらわれているというべきなのかもしれない。「意味」と言い換えてもいい。直接的に賃金としてとらえる場合だけでなく、「存在価値」というような抽象度の高い概念に対しても「価値」という尺度を持ち出す。そういうスタンスが良いとか悪いとか、何が原因かとか、そんなことを語るつもりはない。今回考えたいのは、「価値」とは何か、そして、どのようにそれが創出されているか、ということだ。
なぜそんなことをわざわざ記事にしようと思ったか。
それはこの社会に、価値の創出の方法、そして利益の出し方について、何も理解していない人があまりにも多く、それが、大きな社会の歪みを生み出していると感じたからである。この現代社会を生きる上で、価値の創出、利益の創出という営みからは逃れがたい。では、きちんとその主体である我々がそれについてよく知るべきではないだろうか。無論、これから私が述べることは、普遍的な真理ではないし、一介の学生が書いたに過ぎない、信憑性なんてその程度の論説ではあるが、それでも、この世の中で目の当たりにする不条理や不合理に対して行動せずにはいられないのである。読んでくれた人の価値観が少しでも変わり、何らかの動機づけとなり、僅かでも変化を生み出せるよう願う。
価値の創出
それではここから価値の創出とは何たるかを述べたい。ここではまず具体的な「賃金」の観点における価値の創出をテーマにしたい。またここからの議論は岩井克人氏の著書『会社はこれからどうなるのか』を参考とする。
ゼロサムゲーム、プラスサムゲーム
価値の生み出し方の考え方には大きく二種類ある。「ゼロサムゲーム」と「プラスサムゲーム」という二つだ。「ゼロサムゲーム」とは、すでに存在する価値を分配する(奪い合う)、という手法。ケーキを購入しそれを子どもに切り分ける行為を想像してもらえればいい。「プラスサムゲーム」の方が、直感的な価値の創出に近い。価値を新たに生み出していく手法である。材料からケーキを作ることにあたる。
上記の説明には多少語弊はあるが、一旦飲み込んでほしい。ゼロサムゲームは特殊な技術や専門的な知識を必要としない一方で、獲得できる価値には限界がある点、得をするものと損をするものが生まれかねない点など、問題点がある。一方プラスサムゲームには、最初のハードル(技術や知識の獲得)はあるものの、理想的な価値の生み出し方のように見える。誰もが得をできるなら。
実際、近代から続く資本主義の経済においては、プラスサムゲームの価値体系を想定している。
かつて、人類の殆どが農業に従事していた頃(1万年前から150年前ほど。しかしこの時代の多くの文明においては農業に従事していたのは奴隷やそれに類する身分の者であったため、歴史においては存在感はないが)、そして社会の「価値」「利益」の殆どがその農業によって生み出されていた頃、社会は完全なゼロサムゲームに支配されていた。農業生産は土地という絶対的な限界があり、貴族層のみが十分な食糧を手に入れ、つまり農民は困窮していた。
時代が下り農業生産が大きく向上し、貨幣によって誰でも十分な食糧、いやそれだけでなく物資や文明の利器、娯楽を享受できるようになった現代。我々は「財」や「サービス」を生み出し、分配する。これが現代における「価値の創出」であり、これによって現代人は利益=賃金を獲得し、望みの品を手に入れている。
この価値の創出の過程を考えてみれば、それは紛れもないプラスサムゲームである。製造業が「財(製品)」を製造する場合は、原料からさらなる価値を生み出しているし、サービスを考えると、全く価値のないところに価値を新たに生み出しているとさえ見えることもある。勿論技術や知識には差があるため、より多くの利益を獲得できる人も生まれるが、基本原理として、現代の資本主義はプラスサムゲームの構造であり、価値をいわば無限に生み出すことができ、誰もが得をできる、そうなっているのである。
価値の創出≠利益の創出
違和感が湧かないだろうか。これまでの話を真だと認めると何か矛盾があるはずである。そう、一番最後の部分だ。価値が無限に生み出せて、誰もが得をできるという点だ。ここを躊躇なく納得できる人はまずいないだろう。現実として起こっている不況や失業や、さらに言えば低賃金などの様々な問題と、どうも話がかみ合わない。
しかしその原因は上記の議論が誤っているからではない。上で述べたのは「価値の創出」であり、そしてそれは「利益の創出」とは乖離した問題であるからである。それを理解してもらうためにも、これから利益の創出について考えていく。
利益の創出
まずは利益の定義から確認する。「利益」とは経済学において、費用と売上の差として定義されている。(具体的には、利潤=(価格)×(販売数量)-費用関数)製品の売上よりもそれを作るのにかかった費用の方が大きければ赤字で、その逆は黒字、というわけだ。
単純である。作るのに100円かかった品物を500円で売れば400円の利益である。
ではなぜ、100円のものが500円で売れるのだろうか?それはそこに「差異」があるからである。
差異性
差異性は価値や利益を考える上で極めて重要なファクターである。差異性とはつまりそのまま「違い」ということであるが、これが経済における価値の源泉なのである。人は「違い」にこそ特別性を見出し、それが即ち価値なわけだ。
例えばカメラを買おうと思ったとき、市場にAというカメラ一種類しかなかった場合を考えてほしい(ここからの例は撮影機能をカメラのみが持つと考えると理解しやすい)。無論カメラが欲しいのでAを買うことになる(十分な支払い能力を仮定する)。その値段が仮に5万円だとしても10万円だとしても100万円だとしても、そのAという商品にその価値を見出しているわけではない。この場合は「カメラが持つ機能」のみに価値を感じているのであり、そこに料金を支払っている。
一方現実の市場を考えてみると、そこにはいくつもの商品が並んでおり、一つとして同じものはない。その場合にAを選んで購入した場合、それは「Aというカメラが持つ機能・魅力」に価値を感じているわけで、その上で料金を支払うのである。商品そのものが価値を持つとき、そこには差異を生み出しうる要素がある。ある一定のカテゴライズの中の競合財と比較した時に、何らかの差異、コストパフォーマンスや機能、デザイン、ブランドといった違いに魅力を感じ、価格に十分な妥当性を認めた時、人は商品を購入する(このような相対的な尺度ではなく、あのメーカーの商品しか買わない、とか、一番安い商品しか買わない、といった絶対的な尺度で行動する人もいるが)。
作り手側も同じである。同じものを作ったところで意味がないし、そもそも法律上それは禁止されている。現代のプラスサムゲームの世界観において、価値の創出とは差異の創出と同じなのだ。100円で手に入れた原料を加工して製品を作り、それが市場で認められるような差異を持っていれば、200円にも1000円にも1万円にもなる。
これが100円のものを500円で売ることができる理由である。
さて一体この400円の利益はどうなるのだろうか。
費用と賃金
生まれた利益の使い道は多種多様である。ほとんどを株主に還元する企業もあれば、内部留保したり、投資したりする企業もある。しかし、利益から賃金が支払われている、というのは深刻な誤認である。なぜなら、賃金は費用だからだ。「人件費」というように、従業員に支払われる報酬は、報酬というより費用なのである。勿論業績が伸びている企業が労働者の賃上げを行うケースもあるが、これは、意味的には製造効率を上げるために新型の機械を導入するのと同じなのである(資本への投資)。
つまり、「作るのに100円かかった品物を500円で売れば400円の利益である」という文において、作るのにかかった100円の中に、すでに原材料費、製造するための機械の料金(より経済学的には減価償却費)と同列に人件費は計上されているのである。
これが何を意味するかというと、機械や従業員は差異として400円分の価値を生み出しているにもかかわらず、多くの場合利益にはありつけないということである。多くの場合、400円分の価値を生み出したなら400円分の報酬(賃金)が支払われるのが妥当だと思うだろう。しかしこの世の中の経済はそのようには回っていない。400円分の価値の創出に400円分の報酬を支払えばどこにも利益が生まれない。利益を生もうとして価格を釣り上げたところでそれは売れない。価格だけが高くなっても、差異がなければ売れないからである。繰り返すが、400円の価値の創出に対して、400円の報酬は支払えないのである。
価値という目線で見れば確かに100円のものを500円に変え「400円分の価値を創出」しているように見えるが、利益という目線で見れば、そもそも500円のものを無理やり100円で仕入れ「400円分の利益を創出」している、というわけだ。
資本主義の歴史
まだまだ納得がいかないかもしれないが、歴史を振り返ればどうしてこんな構造なのか、理解できるだろう。
再び農業生産時代に戻る。当時農業に従事していたのは「被支配者」たちであった。農民や百姓、場合によっては奴隷といった階級の人々。彼らを僅かな「支配者」層、貴族や王族、騎士や武士が管理していたのである。当時の利益の出し方は勿論「搾取」である。農民の生産物はそもそも支配者の管理下にあり、賃金として支払われていたのは僅かな農産物か、場合によってはそもそも賃金などなく、ぎりぎり死なない程度の食糧があるかないかという状況であった。
次に産業革命が起き、産業が工業化していった時代を考える。当時工場で働いていたのは失業した、または困窮した農民である。彼らは困窮しているが故、低い賃金でも働いてくれる。それを雇い支配していたのは「資本家」である。彼らは潤沢な資金を用いて工場や機械を手に入れ、そこで労働者を働かせた。この時代もまた「搾取」によって利益を生み出していたわけだ。産業革命期に子どもが殆ど丸一日労働させられていた、というのを中学校や小学校の社会で習わなかっただろうか。今から100年程前の段階で「それ」である。
現代でも基本構造は変わっていない。安い労働力を求めて工場は発展途上国に移った。では開発国国内の産業はどうか。サービス業の割合が多くなっていく中で、それに従事する人々が暗に要求されていることは、生産性、つまり「価値の創出能力」の向上である。もう国内では「安い」労働力を獲得することは無論不可能なので、逆に、ある程度のところで賃金を据え置いて、その上でより高い能力を発揮してもらい、より高い価値を持った商品を作り、より高い価格で売ることにすることで、実質的に「安い」労働力を生み出そうとしているのである。
そもそも人間社会において、人間の労働を用いて利益を生み出す場合、その手法は本質的に「搾取」であったのであり、未だそれは変わっていないし、変える手立ても今のところないのである。搾取がいけないことであったとしても。
※補足:利益は何のためにあるのか
ここまでの議論で、「利益」が何のために生み出されているのかわからない人のためにここで利益とは何かについて補足する(飛ばしても可)。
まず近代以前(農業生産時代)における利益とは、搾取する人が生きるためのものであった。被支配者の生産物を働いていない支配者が貪っていたと思ってくれればそれでいい。勿論農産物を加工・調理して販売し新たな利益を生むことはあったが。
では産業革命以降の利益、つまり(産業)資本主義の利益とは誰のためにあるのか。これは一言で表現するのは難しく、経済学・社会学における大きな議題ともいえる。まあここでシンプルに説明すると、出資者、会社(法人)のためにある、ということになる。産業資本主義においては、工場や倉庫、機械を準備するために莫大な資金が必要となる。初期の資本主義ではその資金の殆どが「資本家」と呼ばれる有力者によって提供されていたわけで、個人による労働力の搾取が行われていた。産業の進歩につれて、工業の規模が大きくなると、工場や機械が一層高額になり、少数の資本家だけではその資金を賄えなくなった。その流れで「株式」による資金の入手が主流になっていったのである。現代では殆どの企業が株式会社である。株式会社の場合出資者は株主ということになり、利益は株主のためにある、となる。
資金がなければ会社は成立しない。会社の経営において資金の調達は極めて重要である。十分な資金を入手する、つまり株式会社においては、十分な量の株式を購入してもらう、これが重要になってくるわけである。どのように会社をデザインすれば株式を購入してもらえるだろうか。これには様々なソリューションが考えられるが、やはり、できるだけ大きな利益を生むことが最もオーソドックスであろうし、経営の基本である。大きな利益を生み、かつ十分な量の配当を株主に還元する企業の方が資金調達に有利になれるわけで、そういう意味で、「利益は株主のためにある」といえるわけだ。(これが普遍的で画一的なアイデアではないことに注意していただきたい)
なにを理解していないのか
社会を生きる人に理解してほしいこと、いや理解すべきことは次の三つである。
「価値≠利益」
「価値の創出=差異の創出」
「資本主義は利益を労働力の搾取によって生み出している」
特に最後の一つ。この原理の理解度の低さは深刻である。「年収600万円で英語力を求めないでほしい」とか「○○をするほどの給料は貰っていない」とかいう言説がはびこりそれが支持を得ているのを見ると、共感よりも先に無知への虚しさを感じる。
また、モノに付けられた「値段」がそのままそのモノの「価値」であるかのように捉えるというのも危険な誤解である。原理的に、市場にあるすべての財・サービスには、値段を大きく超える価値がある。とてつもないほどのクリエイティビティによって作られている音楽や映像などの娯楽が極めて安価に入手できる現代は、この視点に立てばひどく危うさを感じる。
現代は、自分の能力、つまり自分の価値が正当に評価されていない、と感じるような社会ではあるが、それは、自分が他者(物質も含めた)の価値を正当に評価できていないことが原因ともいえる。
善悪論には帰結できない
最後に一つ注意をして終わりとしたい。
今回の議論をある程度納得していただければ、「資本主義」が何か悪いもののように感じると思うが(いうまでもなく私は社会主義論者ではない)、ここまでの議論にあるような原理は、原理でしかなく、善悪論には帰結できない(というのが私の見解である)。マルクスやレーニンのように資本主義の構造を批判し、あらたな経済構造を提案する者もいたが、歴史を鑑みれば、資本主義の地位は堅牢であり、差異が価値であることも普遍的なように見える。そもそも人間は価値を創出したがっているように思え(価値を認められたいと求めているように思え)、だからこそ、現在の社会の構造を覆すことはできないし、無論完全ではないにしろ、かなり完成形に近い価値体系が現代には結実しているように見える。
現代社会は搾取を原理としているにしろ、歴史上のどの時代と比べても最もチャンスに溢れていて、その平等性も圧倒的に高い。リスクはあるものの、失敗しても福祉保障が存在するため、安定性も保証されている。
そもそもおカネでしか価値を測れない陳腐な世界観が諸悪の根源なのであり、社会の原理は善悪に還元できない。常に善悪は人間の中に宿るのである。
コメント
『「資本主義は利益を労働力の搾取によって生み出している」
特に最後の一つ。この原理の理解度の低さは深刻である。「年収600万円で英語力を求めないでほしい」とか「○○をするほどの給料は貰っていない」とかいう言説がはびこりそれが支持を得ているのを見ると、共感よりも先に無知への虚しさを感じる。』
の部分についてですが、最終的な主張としては、資本主義のあり方として、利益の創出のための搾取は前提とされているものであることを理解せよ、というものだと自分は受け取りました。
一方、「年収600万で〜」と述べる人の意見は「英語力を駆使した業務(に足る英語力を習得するための労力)」に対して年収600万円は釣り合わない、という部分にあると思うのです。
そうした不満を述べる人の主張に対しての回答として「搾取が前提とされている」を持ち出して、結果、不満を述べる人が搾取の構造を理解したところで、彼らの不満は解消しない、そしてその主張も変化しないのでは無いかと思うのです。
結局のところ、「年収600万で〜」と述べる人の主張はどのように解消されるべきと考えているのでしょうか?
不満は解消しないかもしれませんが、体制の構造について無知であるか否かの違いは重大であると考えます。その上でこの記事を書きました。
また「年収600万で~」と述べる彼らの主張に関しては、解消する必要はないと思うのです。なぜならば、その搾取に対する不満感や嫌悪感は健全なものであり、資本主義をはじめとした様々な主義思想が入り混じる社会の中にそのような不満は十分存在意義を持つに足るからです。不満が解消されるのであれば、それは我々の思考や説得によるものではなく、不満を持つ当人たちによるものでしょう。当人たちが使用者もしくは政府に働きかけることによって、(彼らにとっての)歪みが解消する、というプロセスを踏んでこそ彼らの主張・不満は解決されると私は考えます。
この記事で伝えたかったことは資本主義の社会体制や構造でした。それはつまり、不条理の裏に潜む本質を知ったうえで意思表示をし行動することが健全であろうという私の主義によるものでしかありません。このケースについて私としては、歪みを感じる労働者や、歪みを生み出す使用者、それを歪みだとはしなくていいとする利害関係者らといった当事者同士の問題であり、そこに外部の人間が手を出せるとしたら、この記事のように仕組みや歴史などを解くこと程度だろうという立場です。
返信遅くなり申し訳ありませんでした。