全く、根性なしばかりで反吐が出る。
このところ「大学生の日常も大事だ(大切だ)」とかいうハッシュタグが盛り上がっているが、これから述べるのは、そのハッシュタグに対するアンチテーゼである。きっとこのハッシュタグで言われているであろう「大学生」と同じ境遇である自分の立場を以て、彼らが真っすぐに自分の気持ちをツイートしているように、私もそれを真っ向から否定していきたいと思う。
とにかく根性がない。それらのツイートを見るたびに、「大学生」の根性のなさに情けなくなった。「私はこんな苦しんでいる」と長々と述べて、救済を乞う、あさましい、あさましすぎる。「大学生」とは、こんなにも愚鈍で、公然と醜態をさらす生物であったであろうか。
その内容それ自体も、くだらない。大学が始まらず、出会いもなく、慣れないオンライン授業、重い課題、相談できる仲間もおらず、学費だけが消えていく、それなのに小中高や会社は始まっている、大学に行っちゃいけないのに、旅行はしてもいい、だから「大学生」の日常も重んじろと、そういうわけだ。
馬鹿馬鹿しくて虫唾が走る。
勿論、私だって苦しい。一応国内最難関大学に合格した自分としては、必死の思いで勉強して、ついに入学できる、となったのに、期待していた大学生活はそこにはなく、上京することすらなく、実家にこもる毎日。そりゃ苦しい。躁鬱を不規則に繰り返し、原因不明の吐き気がここ3か月ずっと収まらないでいる。だから何だ?多分、件のハッシュタグをつけてツイートしている人たちと大して境遇は変わらないと思うが、それらのツイートには1ミリも共感できない。不快感と虚無感しかない。
苦しみの最中にあるとき、他者に文句を上げる、環境に文句を上げる、そんなものが「大学生」か?実際どうかは関係ない、苦しんでいるなら、自分を変えるために苦しむ、置かれた環境の中で最善を尽くすために苦しむ、そうあるべきだ。苦しんでいる時、他者に責任を押し付け、環境に変化を求めるような人間は、いつまで経っても成長しない。自分の言葉で他者や環境が自分の思い通りに変わってくれると思っているような人間は、どんな状況にあっても、自分の思い通りにならなければ文句を言う。そういう人間を腐るほど見てきた。なんと幼く、脆弱な存在だろうと思ってきたが、この国では、そういう人間でも「大学生」になれるのか。もはや哀しさまで感じる。
そして何よりも、「小中高や会社が始まっていて、旅行は良いと言われているのに」大学生だけ学校に行ってはいけないのはおかしい、というこの部分が最も理解できない。愚の骨頂である。成人かそこらのいい年齢の輩がこんなことを平気で、公然と口にしているということが俄には信じがたい。「○○は良いのに、私だけダメだというのは不公平だ」という論理は、クラスのみんなが持ってるから、あのおもちゃを自分にも買ってほしいと駄々をこねる子どもと同レベルである。何を食べたら、こんなことを恥ずかしげもなくSNSで言えるのか。自分だけ持たざるということに貧しさを感じているその心が何よりも貧しい。
そもそも、大学がオンライン講義を行っている理由は、ウイルスの感染拡大を防ぐためであり、大学は様々な地域から学生が集まるので、他のコミュニティよりも強く感染防止対策をしなければならないのは必定である。他が始まったのだから我々にも自由を!という論理は、政府の対応を批判しているのに、このタイミングで旅行喚起政策を行った政府と同じように感情的で無策であるという点で矛盾している。
無論、生活苦で退学を余儀なくされた者に対しては救済をする必要はある。そのために声を上げることを私は否定しない。しかし結局のところ、あのハッシュタグをつけてツイートしてる人たちの多くは、自分の思い通りにならないことが嫌なだけだ。「大学生」という大層な肩書でべらべらと持論を展開しているが、その実は、駄々をこねる子ども。という風にしか、私の陳腐な感受性では受け取れなかった。ただ、自分の苦しみを担保に自由を要求するような輩が「大学生」としてのうのうと生きていること、私としては、それに対する疑問が残るばかりなのである。
自分は大学の合格が決まった時、母方の実家に挨拶に参ったのだが、その際、その近所に住む祖父母と親交のあるお爺さんにも挨拶に伺い、そこで大変有意義な講話をいただいた。そのお爺さんは占領期のソ連外交の折に通訳として働いていた、立派な方で、言わずもがな学生の時分は大変な努力をなさったらしい。生きるために、血を吐いても勉強したと、そうおっしゃっていた。
きっと、自分には無理だろうと思った。生きるためと迫られることもないし、怠惰な自分が、身を削るほどの努力は無理だと。だがしかし、それが追い求めるべき姿であろうと強く思った。無理かもしれないが、それが理想形であることに変りはなく、それを追い求めるべきだということに変りはない。
講義がオンラインであることや、課題が多いということは、さしたる問題ではない。自分が今励むべきものを見据え、そのために努力する。「オンラインで学べない」ものがある、と文句を言う前に、オンラインで吸収できるものを吸収しつくす。課題が多いなら、適宜手を抜く、すべてを完璧にこなせるほど自分は立派ではない。そうして余った時間を生み出し、自分の勉強をする。課題をこなすのが目的ではない。知を追い求めるのが、「大学生」たる本分である。
大学生の日常も大事だ?
身が置かれた日常を、「大学生の日常」に昇華させるのが、本当の大学生だ。
コメント
自分もそう思うよ( ^ω^ )
大学生のあるべき姿はこれで大方間違いない。自分もこうあろうと思う。ただこれは理想に過ぎない。あなた本人が成功者でありその理想を追うことが出来る強い立場であるためか、そうでない者への理解が反映されていないように見える。学生が大学に通う理由は様々であり、その理由にかかわらずみな大学生として認められるべきである。理想に反する大学生を嫌うのは勝手としても、彼らを真の大学生に非ずとしてしまうのはどうだろうか。強者が弱者を否定する図は見過ごせない。
まず本記事は感情的な部分も多く、道徳的配慮に欠けた文言もあったことをお詫びいたします。
その上で、睡眠不足さんのコメントへ私自身の意見を述べさせて頂きます。
本記事は、単なる私自身の美学について書き連ねた文章でしかありません。「真の大学生に非ず」としているような部分でも、それは美学の強要ではなく、あくまで私の主義思想の一端に過ぎません。見るも見ないも自由のインターネットで発信していることがその証拠です。こういう考え方もある、というポーズなのです。勿論、それが不快に感じる人もいるでしょう。ですがそれが表現であり、存在の主張です。それ自体を咎めることは何人にもできません。
また、恵まれた人間が理想を語り、そしてそれに反するものを良しとしない、というあなたの言う「強者が弱者を否定する」構図は、およそ殆どの道徳論に当てはまるといっていいでしょう。道徳的な行いのできる人間は、限られており、その意味で恵まれた人間と言わざるを得ない。恵まれた人間が道徳的で、そうでない人間が非道徳的だとされる世の中であり、そもそも道徳観とはそういうものでしょう。では道徳は弱者を虐げるものでしょうか?そうではありませんよね。強者とされる人間は、強者としての自覚を持ち道徳的行為に寄与しなければならない。弱者とされる人間も、それに甘んじることなく強者になろうと、強者であろうと、道徳へと己を駆り立てる。道徳とは本来弱いはずの人間を強くするための社会通念であると私は考えます。
だからこそ、弱者であることに甘んじ、すべてを環境のせいにする、現在の大学生像に腹が立ってしまうのです。彼らの行為は社会の道徳観に対する反抗であるからです。私は、それは是正されるべきだと思ったから、このような文章を書きました。
私の信念をここで説明したところで、理解されるかも、納得されるかもわかりません。不快な人にとっては不快極まりないでしょう。ただわかってほしいのは、一方的に誰かを貶めたり、怒りに任せて自分の意にそぐわない言説を排除したりしたかったのではなく、ある一定の信条のもとに今回の記事は作成されたということです。