勉強する意味
ついこないだ「学校の勉強は役に立つ?」という記事で、勉強する意味について長々と考察したばかりなのだが、再び今回改めて勉強の意義を考えていきたい。と、いうのも、前回の記事は、”勉強できない人”向けというテーマで書いていた記事だからである。今回は”勉強できる人”向けということである。「学校の」勉強とか、そんな低俗な話をする気は毛頭ない。もっと崇高で普遍的な勉強、学習の本質的な価値について述べていきたい。きっと抽象的な話になっていくと思うので、読むことを薦めはしないが、私自身としては、”勉強できる人”にはどうにか一読を願いたいところである。きっとその理由が最後まで読んでいただければわかってくれるだろうと思う。
圧倒的な暴力を考えてみる
まずは人間社会における、「勉強(学問)の優位性」について確認していく。
そこで考えてほしいのが「圧倒的な暴力」である。何もかもを支配できるような、一昔前のRPGのラスボスのような、圧倒的な力を持った存在がいると仮定すると、何が起こるだろうか。想像してみてほしい。自分がもしそんな存在だったら?そこに生じるのはつまり無限の自由である。すべてが思いのままになり、責任も義務も何もない。倫理や道徳、いや学問でさえ、気が向けば気に掛ける程度の概念でしかない。ひとたびそんな存在が生まれれば、たちまち現在の社会は破綻し跡形もなくなるだろう。
圧倒的な暴力が実現するのは無限の自由であり、無限の自由を実現させるのは圧倒的な暴力だけなのである。
では、現実はどうだろう。
勿論「圧倒的な暴力」などは存在しない。いや、我々はそれを単に「天災」と呼んでいるに過ぎない。我々人間自身は、そんな大きな力を持ってはいないのであり、常にそれに虐げられる側なのだ。だからこそ我々は社会を作る。それが人間の「(圧倒的な)暴力」に対する生存戦略であり、それが人間を人間たらしめる唯一の証明である。
我々は一人では脆弱だから社会を形成するのであり、社会を形成する以上自由は制限されるのである。
つまり人間の社会を突き動かしてきたのは「力」ではない、ということだ。我々の社会は常に「力」に対抗するためにあったのである。我々の社会を突き動かしてきたのは、「力」と対極にある概念、そう、「知」である。時として「知」が力を生むこともあったろうが、本質的に、そういうものではない。「知」とはまさにそれ自体で力と対等に渡り合える概念なのだと私は思う。ヘーゲルの考えを借りれば、
「知」の蓄積が社会を進展させたのであり、それは自由を実現する方向に進展している。
だからこそ、「知」とはまさにそれ自体で力と対等に渡り合える概念なのである。(自由を実現するのは「力」だけのように見えて、「知」にもその可能性が十分あるから)
これを通して私が証明したいのは、言わずもがな「勉強の優位性」である。人間社会は学問によって進展してきた。それはつまり、人間が営むどんな行為よりも、勉強というものが優位にあるということを示しているのではないだろうか?いや、誰しもが心の奥底に通底観念としてそういった認識をしているからこそ、「学」という概念にこだわるのであろう。アジア圏では「学歴」、欧米圏では「教養」として、それ自体が、人間を勝ち組・負け組に分ける勢いであり、それに対する人々の強い、極めて強いコンプレックスが垣間見えるのもその証拠でなかろうか。
つまり「勉強」は偉いのである。
人間である証明
次に考えていきたいのは「勉強の普遍性」である。
前段で述べた内容をほじくり返すが、人間はその生存戦略として社会を形成したのであり、その進展にこそ「知」が宿っていると述べた。これが、人間を人間たらしめる唯一の証明であると。
「知」こそが人間が人間であるという理由なのである。
ここには色々な語弊を生じさせるだろうが、それでも強く主張したい。「知」持たざる者は人ではない。「知」追わざる者は人ではない。
カント哲学における「定言的」の概念で表されるような、勉強とはそんな普遍的なものなのである。人間であるために勉強しなきゃいけない、とか、人間なんだから勉強しなきゃいけない、とかそういうことを言ってるんじゃない。あなたが人間なら勉強しているはずだ、ということだ。人間だから勉強しているのであり、勉強しているから人間なのであり、これに当てはまらない者を人間というためには別のインセンティブを用意しなければならない。勉強なんてして当たり前で、呼吸と同然なのである。
つまり「勉強」は偉くないのである。
勉強の価値
勉強とは、ヒトが人となった時に手にした崇高な公器であると同時に、そうであるからこそ人にとっては普遍的な概念なのである。
この矛盾を解消するのは容易い。
基本的には、勉強とは普遍的、つまりやって褒められるようなものではないが、その中には、社会を進展させるような、褒められるような勉強もあるのである。要はレベルの問題である。勉強できるからって偉いわけじゃないというが、それはある一定のレベルまでの話である。
未だ我々は自由を手に入れていないからこそ、未だ我々は勉強し続けねばならない。社会を進展させるために。当たり前だが、時代が下れば下るほど、「知」は蓄積され、社会の進展のために要する「知」は高度化していく。そういう意味で、現代のように全ての若者に教育を施行し、学問の可能性を開くというのは、社会の目的に照らして合理的と言える。つまり、批判を恐れず言えば、ふるいにかけているのである。
たくさんの子どもたちに勉強させ、その中でも優秀なものにはさらに勉強させる。
これは別に誰かの利益のためではない。いや、局所的に考えれば、個人の利益の概念は登場するだろうが、繰り返すが今はそんな低俗な話をしたいのではない。このような、勉強を推し進める社会の働きは、まさに社会そのものによって行われているのである。考えれば当たり前のことだ。
勉強自体には何の価値もありはしない。高度化した勉強が持っている可能性にこそ価値が生じるのである。
そして、高度化した勉強を受けられるというのは、「選ばれた」者であるということであり、無論その恩恵を自分のために終始するかどうかは個人の自由だが、私は、「選ばれた」者にはその責任があり、それを果たすために尽力すべきだと思う。
社会を動かす力、いや、社会を動かす知を持ちうる人間が社会を変えずして誰が変えるのか。
勉強が価値あるものになるために、意義あるものになるために、もっともっと高い次元で勉強できることが、そしてそれを自らのためでなく社会のために尽くせることが、本当の意味での「勉強できる人」であると、私は信じる。
※わかっているとは思うが、「高度化した勉強受けられる」⇔「難関大学に合格/を卒業する」(同値)ではない。厳密にいえば、「高度化した勉強受けられる」⊃「難関大学に合格/を卒業する」(部分集合)である。
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