テレビがつまらないんじゃない。視聴者がつまらないんだ。
テレビ見ますか?
つまんないですよね。
まあ、角が立つのでどこがどうつまらないのかは言いませんが、きっとこれを読んでいるということは、あなたもテレビがつまんないと思っているんでしょう。今回は「どうして」つまらないのかを考えていきます。
テレビ、ひいてはもっと広義に「メディアコンテンツ」というものについて、もう少し深く考えてみましょう。(ここから述べるコンテンツは、プロ:職業制作家によるもののみを扱います。Youtubeなど素人が参入できるコンテンツは一旦除外します)
当たり前ですが、コンテンツも商売です。お金儲けです。綺麗事言う必要もないので、商学部で学んでいる身からはっきり言わせてもらうと、どんなコンテンツもお金儲けが第一です。テレビは勿論、音楽、漫画、アニメ、映画、所謂「プロ」が携わる以上、利益は不可欠です。利益がなければ、そもそもコンテンツ自体提供できませんからね。利益がなければ存続もできない。「素晴らしい」コンテンツを届ける以前に、大前提として「お金になる」コンテンツである必要があるんです。これは学術的に絶対必要事項なわけです。
では、コンテンツは一体どのようにお金儲けをするのか。
コンテンツが利益を得る手段は大きく二つで、消費者本人から直接料金を徴収するか、二次的利益に投資する企業などから料金を徴収するか。具体的な例を挙げると、イベントチケットや書籍・CD、グッズを購入してもらったり(前者)、雑誌に掲載する広告の料金やTVCMの広告料を受け取ったり(後者)、といった感じですかね。
ここで重大な事実が浮かび上がってきます。
コンテンツは極めて流動的な消費者の需要に依存した利益獲得の手法をとっているということです。
消費者から直接料金という形で利益を獲得する場合は勿論、企業から広告料を獲得する場合についても、最も考えなければいけないのは「消費者」です。多くの視聴者がいるコンテンツにこそ、広告の価値があります。広告料を獲得するためには、まず視聴者を確保しなければならない、ということ。コンテンツにとって、企業から得る広告料は莫大であり、モノによっては利益の殆どが広告料ということもあるわけで、この部分をおざなりにすることはできません。
消費者の需要を見極め、それに合わせて経営する、というのは全ての産業に普遍の原理です。消費者がいなければ利潤は生まれませんので。しかし高度の産業、とくにコンテンツの場合、考えなければいけない需要は極めて流動的です。農業のような第一次産業ではほとんど需要を考える必要はありません。寧ろ不作に消費者が苦しむこともしばしばあるくらいです。それに対し、商業、サービス業、そしてエンターテインメントコンテンツは、刻一刻と需要が変わります。消費のインセンティブが劣位にあるからです。
食べ物は買わないと飢えてしまう。消費のインセンティブが強く生じます。「買わなければいけないもの」つまり生活必需品は必需と書かれるように、こういった理由で需要が固定的なわけです。じゃあコンテンツは?「買わなくてもいいもの」ですよね。だから、「買いたい」という特別な動機がなければ消費されない、消費のインセンティブが弱いわけです。コンテンツは、「買いたい」という特別な動機を生み出さなければいけない、言い換えれば、需要を喚起する必要が常にあるわけです。
全てのコンテンツは、需要を喚起する、または、一時的に高まっている需要に反応するかしないと死んでしまうわけです。どうすれば消費者が買いたくなるか、見たくなるか(聞きたくなるか)を予測しなければいけない。
改めてなぜテレビがつまらないのか考えてみましょう。
テレビはテレビの筐体さえ持っていれば基本的に無料で番組を視聴できるコンテンツです。同時に、利益に占める広告料の割合は比較的高い。テレビも流動的な消費者の需要に対応しながら、視聴者数を獲得しなければならない。
すると、テレビがつまらない原因は、テレビを見ている我々に他ならない、ということになります。コンテンツにおいては「見ているもの」=「見たいもの」だからです。
「(私が)つまらない(と思う)もの」が消費者の需要を喚起すると思うから世に出るのであり、それが淘汰されずに残り続けるということは、現実に消費者の需要を喚起したということに他なりません。我々は「つまらないもの」を「見たい」と思い、そして、それを見続けているわけです。
本当につまらないだろうか?
ここまで、テレビがつまらない原因を考察するということで、「テレビはつまらない」という前提で論理を展開してきましたが、実際のところ、テレビとはつまらないものでしょうか?いやテレビだけじゃなくてもいい。つまらないとか、不快に感じるコンテンツに出会ったことはありませんか?きっと0という人はいないでしょう。それらのことを考えてみてください。それらは、本当につまらないものだったといえるでしょうか。
これは私個人の考えと言いますか心構えと言いますか、主義のようなものと思ってくれいいんですが、この世のどこにも本質的に「つまらない」コンテンツなんてないです。(特定の悪意に基づく創作はコンテンツと呼ぶに値しない)
そもそも我々が出会うコンテンツのほぼ全てについて、それが一定の需要を獲得しているといえます。テレビがつまらないと感じたとしても、それを見る人がいなかったら、その番組が放送されることもないでしょう。コンテンツの「土台」には、それを見る人の趣味嗜好があるわけです。それ自体に良し悪しはないはずです。また、忘れてはいけないのは、コンテンツの「裏側」です。どんなコンテンツにも制作者が存在します。彼らがどのような苦しみの中で作品を完成させているか。創作という行為がどれほどの困難を伴うかあなたは想像できるでしょうか。
きっとあなたも創作をしたことはあるでしょう。小学校の図工なんかで絵をかいたりしたはずです。まじめにやってたかは知りませんがね。あなたは他者に、それも膨大な多数の他者に認められるような作品を完成させたことはありますか?いや、別に膨大でなくていい。誰か一人でも魅了できるような作品を完成させたことはありますか?
そういうことです。
我々は批判する立場にいない
根本的に我々はコンテンツを批判する立場にはいないのです。無論見たくないものは見なくていいです。しかしながら、自分の嗜好に合わないものについて、「○○ができてないからダメ」とか「○○が違う」とか、そういうことを言うのはおかしい。どんな場合であれ、我々のもとに届けられたコンテンツは、制作の条件下の最高水準です。そうでなければ生き残れないから。それだけコンテンツというのは熾烈な競争の中にいます。その作品の完成度について我々がとやかく言うことではない。語るべきは「どれほど素晴らしいか」ということのみです。
作り手の存在を意識して下さい。リスペクトを持ってください。そうすれば、本当にどうしても好みじゃないっていうジャンル以外なら、大抵のコンテンツは素晴らしいです。
ただ忘れてはいけない。作り手は「天才」なんかじゃないです。勿論、彼らは素晴らしい作品を作るすごい人です。でもそれだけです。あなたと同じ弱く脆い人間です。だからこそ、作り手は苦しんでいる。多くの場合、我々は作り手を「好きなことして生きている」人だと思っている。それが楽な生き方だと思っている。ひどい場合だと、それがずるいとさえ思っている。きっと、お笑い芸人はお笑いが好きでしょう。ミュージシャンは音楽が好きでしょう。漫画家は漫画が好きでしょう。でも、だから苦しくないわけじゃない。いや、彼らは、我々が想像するよりはるかにずっと過酷な状況の中で作品を生み出している。ただの人間が素晴らしいものを作るというのは、苦しみを伴って当然なわけです。
それを理解できない人はあまりにも多い。どうしてでしょう。
お客様は神様か?
ここに「消費者主権」という闇が立ち込めます。
コンテンツは常に視聴者並びに企業の機嫌を気にして彼らに媚びへつらう必要があります。機嫌を損ねられて見捨てられたら利益が得られません。利益が得られなければ、制作にかかわるすべての人間の家族の生活が困窮する。そうならないために、コンテンツは受け取り手を最優先に動きます。そういう意味で、消費者よりも制作者の方が低い立場にいます。我々は自分たちの方が偉いと錯覚します。こうして我々は作り手の努力は見えなくなっていく。それが「消費者主権」の考え方です。作り手は一生懸命消費者のために尽くすべきで、どう頑張っているかなんてどうでもいいわけです。
これが創作の困難をさらに困難にさせます。
創作は大変な困難を伴いますから、やはり強いモチベーションが必要です。お金だけでは不十分でしょう。ある程度「作りたいもの」を作ろうと働きかけるはずです。勿論、作りたいものが、そのまま消費者のニーズに適合するとは考えにくいので、そこである程度の制約を受けます。この「程度」が重大な問題になってきます。
テレビとか一見楽しそうに見えますが、彼らは本当にやりたくてやってるんでしょうか。
消費者のためのコンテンツを追求しなければ、かなり幸運でない限り利益は発生しません。しかし消費者のためのコンテンツを追求していくと、必然的にその質は下がります。集合が大きければ大きいほど、最大公約数は小さくなります。みんなが見たいものが、素晴らしいものとは限りません。多くの場合、「みんな」が大きければ大きいほど、それは素晴らしくない。素晴らしさとは、深遠なものです。上っ面だけのものではない。だが、「みんな」に見てもらうためには、上っ面が何よりも大事なわけです。
芸能人の不倫のゴシップは、素晴らしいコンテンツでしょうか?どちらにせよこのコンテンツが大多数の消費者の需要を喚起しているということに、反論の余地はありません。
消費者主権にいいところなんてない。
消費者としての我々を盲目にさせ、傲慢を助長します。創作のモチベーションを害し、それ自体の質を下げる。
お客様は神様でしょうか。いいえそこにあるのは、お客様を神様のように、という作り手の崇高な心構えであり、作り手が消費者の奴隷のように働くという意味では毛頭ない。
「ファンのみんなのおかげでここまで来れました。本当にありがとうございます!」とステージ上でアイドルが涙ながらに頭を下げるならいいけど、「俺たちが金出したからここまでこれたんでしょ、感謝しろ。ピーくらいピーさせろ」みたいなことをオタクの方がほざいてるのはおかしいでしょ。
コンテンツに、接客の従業員に、はたまた教師に、我々は常にケチをつけ、文句を言い、罵る。これでいいのでしょうか。
我々はもっとコンテンツや享受するサービスや授業の裏側に、どれほどの困難があるかを考え、そこにいる作り手が同じ人間であると、なんら特別な存在ではないと理解するべきです。対等な立場を築いていこうと努力するべきなんです。
まあ、ここまで言っても、作り手のことを考えられない奴らもいますよ。とはいえ我々は、そんな奴らも含めて全員、近い将来、現在コンテンツが直面している困難と対峙することになります。社会学や経済学ではポスト産業資本主義とよばれる経済の構造の中に我々は放り込まれるのです。そこでは、すべての労働者が、流動的な消費者の需要に向き合うことになります。平たく言えば世の中全て人気商売になるってことです。
我々は今、どうすべきでしょう。何を考えるべきでしょう。どのようにコンテンツと向き合うべきでしょう。
改めて考えてみましょう。どうしてテレビがつまらないのか。
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