「学校の勉強」は役に立つ?

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勉強が嫌いな男が勉強の魅力を語る

一応進学校と呼ばれる高校に入り、そこから一応難関大と呼ばれる大学に入った自分ですが、高校時代からまず勉強なんてしてないし、受験生の時ですら、全く勉強しない日が週2であったわけで、勿論大学生になった今でも勉強なんてしてません。なのに、今回は勉強ってすげぇぜ、てな話をします。

「学校の勉強」は役に立つと思いますか?どこで、いつ、どう、といった副詞は省略してますが、もっとアバウトに考えてください。「学校の勉強」は役に立つか。

ズバリ当てましょう。今「役に立たない」って思ったあなた、あなたは学生時代勉強できなかったでしょ

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学校で役に立つ

当たり前ですが、「学校の勉強」は学校では役に立ちますよね。とりあえず「成績が良い」というのは利益となりうるでしょう。だけどね、その程度じゃあ勉強の魅力はわからない。

というかね、学校の勉強ができる人、つまりは頭がいい人なんて、そのほとんどがただの「運がいい人」です(暴論)。まず第一に、先生が授業で言っていることや教科書に書いてあることをいともたやすく理解する人がいます。高校、大学だったら努力のたまものかもしれませんが、小学校とかで既に生徒の中には理解能力の差は顕著に現れます。これはもう持って生まれたものでしょ。言わずもがな幸運です。第二に、学校の勉強を楽しいとか面白いとか感じる人。学校だったら褒められるようなことですけど、よく考えてみりゃ変態ですよ。微分積分どうでもいい。古文漢文いとすさまじ。こんなのが面白いなんてね、もう持って生まれたものでしょ。これも幸運です。第三に学校の勉強を頑張れる人。テストのために夜遅くまで勉強したり、わからない所は先生に聞きに行ったり、いや、なんでやねん。Youtube見るわ。普通に夜遅くまでゲームするわ。怒られるギリギリまで課題手抜いてそれで終わりだわ。頑張れる人にはわからないかもしれませんがね、努力できるってのも才能ですよ。やりたくなくても頑張れるって、普通じゃないでしょ。もう持って生まれたものでしょ。幸運です。

学校の勉強ができる人なんて、ラッキーボーイかラッキーガールです。できなくて普通です。成績なんて勉強の魅力でも何でもない。運ゲーですよ。生まれて六年ちょっとで始まって、十年もしないうちに将来の自分の人生決めなきゃいけないってそもそもクソゲーでしょ。

社会では役に立たない?

「学校の勉強なんて大人になってからは何の役にも立たない」「社会に出たら学校のテストと違って答えのない問題ばかりになる」なんてよく聞きますけど、本当にそうですかね。社会に出た後、大人になった後、青春時代の殆どを費やした「学校の勉強」は無価値になってしまうんですかね。

学校の勉強ができなかった人がこの議題について語っても意味ないので(だが、上のようなことを言ってる人は大抵勉強できなかった人の気がするww)勉強できた側の人間の立場でちょっと考えてみましょう。あなたも勉強ができた人の気持ちになって考えてみてください。

とりあえずいえることは、多くの場合、使いませんね。職種によっては、一部利用する人はいるでしょう。でも全部使うって人はほぼ0じゃないですかね。現代文、数学、古典、英語、日本史、物理、…これら全部を大人になってからも使う人なんていますかねえ、って思いますよね。(例えば、大人になってから数学を使ったとして、エンジニアとかね、でもこれは数学が役に立っただけで、勉強が役に立ったとは言えない)

じゃあ、学校の勉強って、生後六年で強制スタートで、それなのに、中身はただの運ゲーで、それで人間性とか将来とか決められちゃうこともある癖に、大人になったら無価値になる、そんなクソなんですかね。

もしそうだとしたら、悲しすぎるし、それ以前に時間の無駄だし、今現在も世界中の先進国で教育が国家事業として行われていて、発展途上国へも普及しようと尽力している人たちがいるなんて、もはや狂気の沙汰です。

と、いうことは、勉強はクソではない、と考えるほうが妥当でしょう。学校で習うことには一定の価値があり、魅力があるはずです。

学校の勉強は人生の役に立つ

  1. 情報の処理
  2. アイデアの創出
  3. アイデアの交流

上の3つのプロセスは、人間社会に普遍的な「コミュニケーション」のメカニズムです。人間の社会性そのもの、と言っていいでしょう。人間は社会の中で生きていくわけですから、コミュニケーションを避けることはできないし、その能力の高さは、そのまま「人間力の高さ」と言い換えてもいいでしょう。

情報の処理

情報の処理とは、自分の身の回りにある情報を状況や目的に合わせて最適化するということです。

例えばスーパーで買い物する主婦を考えてみましょう。

野菜のコーナーを歩きながら、奥様は様々かつ多量な情報に直面します。そこで奥様はまず特定の情報だけに注目します。ここでは値段としましょう。産地や生産者の顔とかそんなのどうでもいいわけです。すると、奥様の頭の中の記憶という情報と比較した時、ジャガイモが安くなっていることに気づくわけです。そして奥様はジャガイモの形や産地なんかに注目を移し、…

というように、情報を遮断したり、情報と情報を比較したり、また、198円という情報と264円という情報を462円という情報にまとめたりもするでしょう。このような、情報を記憶したり演算したりすることを、情報の処理と言います。

アイデアの創出

アイデアの創出とは、そのままです。アイデアを新しく生み出すということです。

再び主婦の例を考えてみましょう。

ジャガイモをカゴに入れた奥様は次にお肉のコーナーへとやってきます。ここでも、奥様は値段と予算や肉の種類、自分の料理のレパートリーや、家族の好み、さらには冷蔵庫に残った食材などの情報を処理しながら、あるパックをカゴに入れながら「今日は肉じゃがにしよう」と決めるわけです。

これがまさにアイデアの創出です。アイデアの創出とは、常に情報の処理の次に行われる、つまり情報に基づくということです。

アイデアの交流

多くの場合、アイデアの創出までは、自己完結します。しかし、それで終わりにはなりませんね。人間は他者とともに生きるもの。生み出されたアイデアは必ず何らかの形で他者に働きかけ、他者のアイデアもあなたに働きかける。働きかけには受動的なものも能動的なものも考えられますが、すべてひっくるめてアイデアの交流です。

勿論奥様の献立を肉じゃがに決めた、というアイデアは家族に様々働きかけます。まずは食欲という欲求に。次に嗜好に。時には「給食も肉じゃがだったんだけど」と息子に文句を言われるかもしれません。この例では考えにくいですが、アイデアを他者へ伝えた時、その反応や、他者のアイデアを受けて、当初のアイデアを改良したり全く別のものに変更したり、ということもあるでしょう。

人間の社会性

我々は常にこのプロセスの中にいます。それは人間である以上避けようのない運命です。物心がついてから自我を失うまでの、健康で文化的な最低限度の生活のすべての時間をこのプロセスに費やします。ともすれば、それに関わる能力が優れていることは、つまるところ、人間として優れている、といえるでしょう。

もしも、学校の勉強がその能力を成長させるものだとすれば、「役に立つ」と胸を張って言えるでしょう。

そういうことです。

学校の勉強が役に立つ理由

学校の勉強も、情報処理・創出・交流、このプロセスを辿っており、同時にそれをより高度にするための修練ともいえるでしょう。複雑かつ難解な情報を処理し、その情報から「自分なりの(自らの力で)」解法を創出し、解法がうまく機能しなければそれを受けて改良したり変更したりする。

学校の勉強は「人間力」を高めうるわけです。普遍的に。これは役に立つといわざるを得ない。

じゃあ、学校の勉強が役に立つとして、すると、我々は勉強すべき、といえるでしょうか。

勉強以外の方法で「人間力」を高められないでしょうか。学校の勉強だけが、そんな特権的な地位にいるのでしょうか。

そんなことはないでしょう。スポーツや、ゲーム、恋愛などでも、同じことが言えるでしょう。しかしながら、しかしながらです。どれか一つのみに秀でてているということは、高い人間力を示すわけではない、ということは頭に入れておかねばなりません。

あの3つのプロセスは人間のすべての行動に付随する普遍的なものだといいました。このプロセスを高水準で達成できるということは、あらゆる行動において高水準を達成できるということです。勉強だけできる、とか、スポーツだけできる、とか、○○だけできる、っていうのは、このプロセスを高水準でこなせているというより、特定のタスクに特化した能力が備わっているということに過ぎず、それは先に述べた「幸運」に違いありません。無論、完璧な人間などおらず、死ぬまで一生人間は成長の余地を残し続けるわけですが、だからこそ私は勉強すべきだと思うし、スポーツだって、ゲームだって、恋愛だって(これはどうなんだろうか)、すべきだと思うわけです。

勉強をしなくていい、勉強すべきではない、そんな理由はないと私は思うのです。

どうして勉強できないのか

勉強すべきだとして、じゃあやるかとはなりませんよね。できもしないし、興味もないことを、やるモチベーションなんて普通湧きません。どうしたらモチベーションを生み出せるか。

なぜできないのか考えてみましょう。答えは簡単です。難しいから。学校で習うことは基本的に難しいです。その割に、与えられた時間がとても短いです。特に高校のカリキュラムなんかは、とんでもない設計不備です。これでも過去から比べれば軽量化されているのですが、まずまずあの量を三年間でやるなんて無理がありすぎ。10代に期待しすぎ。学校の勉強なんてできなくて当然。ぶっちゃけできなくていいです。勿論できるに越したことはないので、そこらへんの解決策も後で述べますが、基本的には学生時代の中で勉強ができなかった、っていうのは別に大した問題ではありません。

例えば高校で習う数学。数学2で登場する三角関数(サインとかコサインってやつね)これは文系も理系も習うことに(一応)なってるわけですが、歴史的に考えてみれば、三角関数なんてめちゃくちゃ新しい概念ですからね。数学の歴史なんて2,000年とかそれ以上あって、たくさんの「天才」たちが切り拓いてきた学問なわけで、つまり新しいものほど難解なわけですよ。それを高校生でやるって、え?

どうやったら勉強できるか

モチベーションが湧かない上、そもそもできない勉強にいかにして取り組むか。好きなことを勉強にすればいいんです。

世の中の殆どのコンテンツについて、深く追求していけば、まず間違いなく「学校の勉強」が登場します。

例えば車。カーレースが好きとか、ただ車を見るのが好きとか、運転するのが好きとか、何でもいいです。車というコンテンツが好きだとして、そのLikeをより追求しましょう。「ただ」見てるだけ、「ただ」運転するだけ、なんて幼児レベルの楽しみ方です。その本質に迫っていくのが嗜好の極致。まずは特徴を分析する。他の車と比べてこの車はどうだと。次に制作者の意図を考える。どうしてこのように設計したのか。そして魅力を考える。どうして自分はこの車に惹かれるのか。これを深めていく。勿論直感的に楽しむのも素晴らしいですが、今は「勉強できるようになりたい」という目的があり、そのモチベーションのために、好きなものから勉強につなげようと提案しているわけですので、どうか受け入れてください。

でも好きなものの全貌がわかってくるってワクワクしませんか?

車の形状は力学に基づいていますから、これは物理学ですね。車のエンジンは化学反応によって機能しますからこちらは化学。車も商売道具なので、経営学や経済学とも切り離せません。車は社会的なステータスを表すこともありますから、心理学や社会学なんかとも関連があるでしょう。メーカーの国籍を考えると、世界史なんかも登場するかもしれません。

物理や化学がわかれば、どうしてこの車がこういう形状なのか、もしくはレースカーがどのような意図で設計されているのか、これがわかると、チームがどのように試合を運ぼうと考えているかもわかってきます。すると俄然レースの見え方は変わってきてより面白くなるのではないでしょうか。

芸術なんかは比較的「学校の勉強」と親和性は低いですが、とはいえ、一定の理論やセオリーに基づいているのが殆どです。そうすると、体系的な理論を学ぶということは「勉強」そのものであり、セオリーなんかを追求すれば「歴史」を考えるに至り、セールスのこと考えれば「経済」に至ります。

勉強できると世界は輝く

学校の勉強がわかると、面白かったものがもっと面白くなります(たまに逆もありますけどね)。さらに言えば、今まで面白くなかったものが面白くなります。勉強はエンターテインメントなわけです。

ピカソの絵を見てどう思いますか。「ゲルニカ」でグーグル検索してみてください。その作品を見てどう思いますか?感動しますか?

きっと誰もが感動しないでしょう。

でもそれは、ピカソが凄くないからじゃない。

それは我々がバカだからです。

ピカソの芸術を感じるに足る教養がないからです。感性ではありません。教養です。感性だけでピカソに感動できる人がいるとすれば、それはピカソ以上の芸術家ということになります。なぜならピカソも理論に基づいた特定の画法のもとに作品を描いているからです。

逆を返せば、今面白いと思っているもの、それは、その面白さのすべてを理解できていないわけでほんの一部分であり、もしくはバカでも面白いようなバカが作った低俗なコンテンツということです。まあ、現代にあるほとんどのコンテンツは果てしなく素晴らしいものだと思いますけどね。

勉強ができれば世界はもっと素晴らしいものになります。

別に学校の勉強にこだわる必要はありません。好きなものを時間をかけて追求する、その中で出会う情報を、どれだけ難解でも、理解しようと試み、そこから「ということは~~なのでは?」とアイデアに至る。そのアイデアを他者とすり合わせれば「いやそうでなくてこれは~~だ」とか「なるほど~~なのか」と議論は深まり広がる。

勉強は遍く我々の周りに開かれているのです。

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