SNS上の誹謗中傷によって今現在も苦しんでいる人がいる。逆に今この瞬間もそんな悪意にまみれた言葉を不躾に投げかける人もいる。どうしてこうなってしまったのか、問題の概要を中心に、発生の経緯と我々がどう向き合うべきなのか、について考察していきたい。
Facebook、YouTube、Twitter、Instagram…現代はまさにSNSとともにあり、そこでは毎秒毎瞬無数の投稿がなされている。新時代のコミュケーションツールであるSNSは様々な革命をもたらし、今や巨大なマーケットでもある。しかし、光があれば影もある。誹謗中傷、詐欺、無断転載、売春、SNSによる犯罪やトラブルも後を絶たない。
正直そんな「悪人」の知り合いもいないので、本当にそんなことしている人がいるなんて俄には信じがたいのだが、それは事実らしい。私は本当に出会いに恵まれていたようである。世の中には、「人間のクズ」が、やはりいる。決して少なくない。(それを忘れないためにもSNSをやっているのだが)
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
SNSが犯罪を増やしたのだろうか。私は考えた。以下、その結論を述べる。勿論、私自身の個人的な意見である。予めご了承いただきたい。
また、今回は「誹謗中傷」にのみテーマを絞らせていただく。
まず前提として、SNS上の「誹謗中傷」がなぜダメか、ということについて。私は、勿論SNS上の誹謗中傷はダメなことだと思うが、それを「犯罪」とみなしたり、「犯罪」と定義するのは違うかと。と、いうのも、この問題は、とにかく人の倫理性に問題の核心があり、「倫理」を司法という外部的な力によって制御しようというのが、不毛であると感じるためである。法律とか以前の問題であるべきだと思うのである。
話を戻して、SNS上の誹謗中傷がダメな訳は、それが負うべき責任を負わないところにある。悪口や陰口なんて、人間なら誰しも言うものだろう。ただ、SNS上の誹謗中傷は、それらとは決定的に違う。
例えば、あなたが友人と教室で、クラスメイトの悪口を言っていたとしよう。しかしこの時あなたと友人は、一定の責任を負う。それは「あなたたちが悪口を言っていたという事実」である。極端にすればわかりやすい。その悪口が大変口汚くクラスメイトを貶めるものだったとすれば、それを聞いていた別の友人はあなたと距離を置くようになるかもしれないし、偶然それを耳にしたクラスメイトが深く傷つき学校にこれなくなってしまうかもしれないし、そうなれば教師に呼び出される危険性もかなり高いだろう。逆の立場で考えてもいい。自分の親しい友人が、そんな酷い悪口を言っていたとすれば、と。こうして、このような場合の悪口は必然的に発言に一定の責任を負わざるを得ない。(悪口は普通人目につかないところでやるものだが、同時に多人数で行われるものでもあるため、必然的に多数のコミュニティにその事実が拡散される危険を負っている)
また例えば、あなたが友人とランチでもしながら、テレビタレントへ悪口を言ったとしよう。しかしこの場合、この悪口がタレント本人に届くことは極めて稀であり、従ってここには何の問題も発生しない。言葉遣いに気を付けさえすれば、あなたが友人を失ったり、教師に呼び出されて内申点を下げることもあるまい。サバンナで巨大な猛獣がどれだけ雄叫びを上げようと、あなたが震え上がることはないはずである。
SNSはどうだろう。SNS上でも、近い関係性同士の悪口は大問題になるほどでもない。責任が多少回避できるかもしれないが、この場合は生身だろうとネット上だろうと大して変わらない。問題なのは、有名人の方である。
リプライや投稿へのコメントはまず間違いなく有名人本人にその内容が届くし、そうでなくとも、所謂「エゴサーチ」に引っかかるなどして、特定の有名人への発言は、かなり高い確率で本人のもとへ届く。そこが問題である。
SNSは「匿名」である。いやそれ以前に、それらの投稿のほぼすべては、有名人にとって他人から寄せられたものである。そうである以上、投稿者には殆ど責任は生じない。生じえない。投稿者自身に不利益になりえる要素がほぼないし、そういうことしてる連中は、できるだけ不利益を被らないよう工夫している。しかし受け手は違う。強く傷つく。他人だからこそなお深く傷つく。
親しければ親しいほど悪口に悪意は少ない。裏を返せば赤の他人への悪口は、高純度の悪意の結晶である。
突然、大きな野犬に囲まれたことを想像してほしい。今にも飛びつこうとしている野犬。あなたはきっと恐怖するだろう。しかしあなたにその野犬を咎める術も裁く術もない。僅かに抵抗できるのみである。
現実ではこれが人間によって行われている。恐怖だけではない。悲しみや寂しさ、そんな感情も伴うだろう。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
私はこの現代の問題は明確な歴史的背景を持つと考える。
テクノロジーの進展の中でも、最も劇的に進化したのが「インターネット」であろう。ソーシャル・ネットワーキング・サービスはIOTテクノロジーの集大成ともいえるだろう。世界中の誰とでも、リアルタイムで繋がれる。
しかし、これは産業資本主義の構造が大きく変革していることを最もよく表していると思う。
近代から長らく世界は資本主義とともにあった。資本主義とは簡単に言えば、「できるだけ大きな利潤を生みだそう」とするということである。悪く言えば「金儲けたら偉い」ということだ。つまり、近代現代の、経済、社会は資本主義が軸であり、「お金儲け」とともにあった。経済の仕組みである資本主義が、社会構造にまで強く影響しているということが、その支配的な力の強さを物語っているだろう。しかし時代は下り21世紀に入ったあたりから、様子は変わり始めている。
「お金儲け」の支配的な力が急に弱まり始めたのだ。理由はたくさんあり、これを述べれば新書一冊分を要すためここでは触れられない。気になった人は調べてみてほしい。どちらにせよ、経済学者の間では、ここ十数年の間に「お金」の力が弱まったのは事実である。
理由は簡単に言えば、「多様性」の発展である。資本主義の下、皆が追い求めるものは「お金」ただ一様であった。ただ、産業の発展の中で、産業は多種多様に変化した。それと同時に、社会も産業の多様化を応援するように「自由」を拡張していった。ここまでは資本主義の仕組みを考えれば当たり前のことなのだが、しかしそれは大きな変革をもたらした。産業の多様化は即ち社会の多様化であり、社会の多様化は即ち人の多様化であった。現に、今まででは(ここでいう今までとは50から60年前といった前近代的な社会構造)考えられなかった価値観が市民権を獲得している。
多様な価値観、即ち個性。そう、他の誰でもない「自分」が歴史上はじめて、すべての人間にとって発現したのである。
それは幸せなような社会に見えて、全くその逆であった。
まず初めに、価値観の多様化によって、「お金」による幸福感は実質下がってしまい、現在では、”年収200万円以上からは、自分の年収に対する幸福度はほとんど変化しない”という研究結果もあり、その低下は著しい。
「お金儲け」なんかじゃない、もっと自分らしい自己実現を、かけがえのない自分を、社会はそれを求めた。そこで登場するのがインターネットであり、IOTであり、SNSである。
現在、人類はかつてないほどに「承認欲求」に飢えているのである。
自分を自分と認めてくれる他者を強く求めているのである。
そして、「自分」が認められないことに深く深く苦しむのである。
SNS上の有名人への誹謗中傷にそんな背景が見える。攻撃は強い嫉妬に由来すると同時に、承認欲求の表れでもある。幼児期の反抗期が自我の眼ざめであるように。また、有名人の方が「エゴサーチ」を行ったり、場合によっては「いいね依存症」に陥るのも、こういった多様化が引き起こした承認への渇望によるだろう。
人類はまだまだ幼いのである。多様化と自我という新たなカタチを手に入れた赤子に過ぎない。
では我々はこれから、この問題にどう向き合えばいいか。
現在進行形で苦しんでいる人がいる。正直「加害者」側の肩を持ちたくはないが、酷い言葉を浴びせる彼らも、この時代の中「自分」を求めて苦しんでいる一人である。我々はこの問題をのんべんだらりと傍観することはできない。
しかし、先にも述べたが、司法の力を持ち出すのは建設的ではない。それはこれまで述べたように、問題の核心が、「自分」を確立することへの葛藤という極めて倫理的、哲学的なものであるからである。外発的力によって抑制しても何も解決されない。
私は、もっと自由になる術を学ぶべきだと思う。現在我々は、第一次反抗期真っただ中の三歳児程度の、自己表現力しか持ち合わせていないのである。価値観だけが多様化しても、満たされなければフラストレーションがたまるだけだ。我々は自己を表現する術を学ぶべきなのである。
そのためにはまず、自分の行為が、幼い愚かな衝動によるものだと認めねばならない。しかしそこには「学」が必要なのである。今回の議論で私が、歴史学や経済学を持ち出したように。学ぶのだ。自由になるために。自分になるために。優しくなるために。
彼女は誰に殺されたのか。
紛れもなく彼女は愚か者たちの悪意によって殺されたのである。
殺人であるのに誰も裁かれない。誰も裁けない。
ただ私は思う。私の中にも「殺人者」の影があると。誰もが「殺人者」を飼っている。
裁くべきはその「殺人者」であり、つまり、誰もが裁かれるべきであり、そして、自分を裁けるのは自分だけなのである。
間違えないでほしいのだが、私がここで述べてきたのは、彼女の死を無駄にしないようにしようとか、そういった内容ではない。彼女の命は、社会の進展のための生贄などでは決してない。かけがえのない、尊い命が失われた、それは変わらない。
だからこそなのである。
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