親ガチャ問題を考える

勉強
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初等教育編

今回からは、いよいよ日本の教育の問題、及び私が考える理想の教育モデルについて論じていこうと思う。ということで第一回は「初等教育編」。日本における小学校か中学校までに注目して議論を展開していく。勿論私にも不勉強な点が多々あるので、そこはご容赦いただきたい。決定的な不備については指摘いただけるとありがたい。

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初等教育の位置づけ

私は初等教育が教育において最も重要な位置にあると思う。最初なんだから当たり前と言えば当たり前だが、生まれてから6,7年の子どもが新たなコミュニティに参画することにはとても大きな意味がある。それは、「家」以外で個人として初めて尊重される世界を手に入れるということ、子どもが、人が、「家」に対抗する力を持つ最初で最後のチャンスなのである。

親ガチャ問題

特殊な場合を除いて、人は「家」に生まれる。親がいて、「家」がある。どんな親で、どんな「家」か、それは人それぞれで、生まれてくる子供には選べない。自分の生育環境というのは、人生最初の理不尽な運命なのである。子どもは「家」なしで生きてきていくことはできないからだ。それぞれの家庭にそれぞれの特徴がありそれぞれの問題があり、一つとして同じものはない。しかし、様々な面で重大な問題を抱える家庭があるのも事実。それに対し、子どもは何の抵抗力を持たないのである。

厳密には世にいう「親ガチャ問題」とは多少異なるのだが、この「子どもが親を選べない」、そしてそれによって「親(つまり生育環境)のせいで制約を受ける」人が発生するという格差や不平等の問題が、「親ガチャ問題」である。

親、つまり労働者の層に格差が生まれるのは、仕方がないことだと、私は思っている。資本主義経済のシステムを採用している以上格差は必然であり、現在の国家の財力を考えても拡大する格差を是正するには至らない。だから、各家庭に経済的格差が生まれるのは仕方がないだろう。しかし、それによって、何の罪もない「子ども」の将来が制約されていいだろうか。それはNOだ。

「家」の格差を是正する

初等教育は、そのような「家」の格差を是正するという重要な機能も持っていると、もしそうでなくても、そういう力を持つのが理想だと思う。そもそも初等教育は義務教育であり、国家が責任をもって行うべきもの。つまり、どのような経済的問題を抱えている家庭にも平等な教育を施行できなければならない。家庭が一銭も出さずに全ての活動(学校が責任を負うもの)が完遂されるシステムであるべきである。そのために税金を使うべきだろう。まず優先して教育にかけるお金は初等教育にかけるべきだと思う。無論所謂「研究費」にお金はかけなければいけないが、それについては「研究教育編」で詳しく述べる。

まず最低限、経済的格差は是正しなければいけないと思う。家で十分な食事が提供されない子供に対して、成長のために栄養素を補うという機能は現在もある。勿論それでも、経済的余裕のある家庭は、「参考書」や「学習塾」など、補助教材を豊富にそろえることができ、それがまた格差を生むという意見もあるだろうが、補助教材は初等教育の段階では、そこまで個人の力に大きな差異を生むとは思えない。また、先取り学習やより発展的な内容について興味がある生徒児童については、教員が補助すればいいだけのこと(教員についてはあとで詳しく述べる)。真の問題は「私立」学校である。

私立学校は廃止すべき

初等教育において、「私立学校」は完全に廃止すべきだと、私は思っている。まず第一に、教育における経済格差を助長するのは大問題である。正直、初等教育の段階では、個人の努力で私立の有名校に受かるというのはまず不可能である。そもそも子どもが私立という特別な教育機関があり、そこに入ると様々な利点があると自分で判断するのも難しく、入りたくても、入試問題は極めて特殊で、特定のプロセス(専用の学習塾や家庭教師や補助教材)を踏むのが必要である。入学後にかかる金額も公立とは比にならない。そのような経済的有利のある家庭だけが入学の権利を持つシステムの教育が、初等教育の段階に存在するのは危険だと思う。また、そのような学校には有名大学に合格するノウハウがあり、結果的に大学の席が私立生に独占されるという現状も私は問題視している。

勿論、「私立」学校のアドバンテージも十分理解している。とはいえ、それでもやはり、義務教育の期間でこのようにグループを選別するというのは問題だと思う。高等教育以上で「私立」学校があるのは問題はないと思うが、先ほど述べた経済格差を是正するという視点からも、幼いころから閉じられたコミュニティに子どもを所属させるということにも、重大な問題があると思う。(後に「学校で何を学ぶか」という段落で詳しく述べる)

「家」に対する抵抗力

初等教育は経済的格差を是正するにとどまらず、子どもに「家」に対する抵抗力を与えるという機能も期待される。これは、子どもが抱える家庭における悩みについて、様々なサポートを学校を行うことによって、最終的には、子ども自身が自立し家庭内の問題に対処できるように成長させるというものだ。小さな問題なら、教員やクラスメイトと悩みを共有する程度で十分である。大きな問題の場合は、最低限子どもが学校を心の拠り所とできるようにして、最悪の場合学校が児童相談所などと連携することで実力行使に出られるようなフットワークの軽さも必要だと思う(このように、学校と子どもや教育に関係する機構が現在よりももっと緊密に連携する必要があると思う)。

これは決して、子どもが家庭内のストレスを0にすることを目標としているわけではない。決定的に重大な問題は実力行使は必要だが、基本的に子どもが子ども自身でその問題に対処できるようになることが目標なのである。無論幼い子供にそれは困難だが、学校教育の現場で、そのような問題解決能力を獲得するのを最終的な目標とするのは妥当であるとも考えている。何といっても、初等教育は義務教育の課程だからである。子どもがこの課程で身に付けるのは、専門的な知識や技術でもなく、この問題解決能力であり、それこそが「教養」なのである(詳しくは「学校で何を学ぶか」の段で述べる)。

学校内でどのような教育が展開されるか、学校内でどのような問題が発生するか、以前に、初等教育はそのシステムとして、すべての子どもに平等に、家庭とは全く異なったコミュニティを提供するとともに、子ども自身に思考力・判断力という武器を与え、子ども個人として尊重することでアイデンティティの構築を支えることで、子どもが生きていく環境に対して無力な存在ではなくする、という重要な役割を持つ(べきだと思っている)。

親ガチャ問題への結論

現在世にいう「親ガチャ問題」は、基本的には、初等教育の不備にあると私は結論付ける。まず根本的に、子どもは生きる環境を選べない。もし仮に恵まれた環境に生まれたとしても、それだけの要因によって子どもは自立性を獲得したりしない。「親ガチャ問題」となれば、その反論として「個人の努力」がどうとかいう意見が現れるが、それは的外れのようにも見える。「努力できる人」「努力できない人」が存在するという認識で今私は生きている。

初等教育は最低限教育における経済格差を是正し、子どもに自立性を与えるものであるべきである。自力で問題を見つけ解決していく力がないと、「努力」はできない。言われたことだけやるのは「努力」ではないだろう。「個人の努力」で世界を変えられると教えてあげるのが、初等教育の最大の目標なのだ。そのような初等教育が完成していない現代において、その人が客観的にどれほどの苦境の中で生きてきたとしても、有名大学に進学したり、一流企業に就職したり、企業を成功させたり、俗にいう「成功」を勝ち取ったとしたのなら、(その人が相当努力したことは事実だが)何か「幸運」なファクターが存在していることは避けようのない事実である。

初等教育編もつづく

ということで、いかにしてこのような初等教育の目標を達成するか、というのをこれから述べていきたかったのだが、長くなってしまったので、次に見送りたいと思う。次回は、教員や親といった、教育に携わる「大人」の役割とそれを達成するためのシステムについて述べる。字数に余裕があったら「学校で何を学ぶか」についても述べる。最早自分ではどれだけの文量になるか全然予想できない。最初と比べると読む人もだいぶ減ったが、読んでくれる人ができるだけ読みやすいように心がけたい。

ホント、読んでくれてありがとね。

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