日本の教育について その3
前回は、「教養」や「技術」といった抽象概念についての、私個人としての定義を述べた上で学校教育の現場における「テスト」や「成績」について問題提起をしかけたところで終わった。今回はその問題について考えていき、また、現代の教育の現場において教養教育はどのように完成しうるかを述べていく。そして最後に、なぜ「教養」が必要なのかということを改めて説明したい。
一度ここまでの議論を簡単におさらいしたい。
そもそも教育とは2つの側面がある。「社会に必要な人材を育成する」という側面と、「子どもが教養を得る」という側面である。(ここまでが第1回)「教養」とは「無知を認める姿勢」のもとで、未知を知識に昇華していく過程のことであり、そのような姿勢をとらない勉強は、単なる技術の訓練に過ぎず、「解を導く」行為しか判定しえない「テスト」は、技術の優劣の判定に留まる。(ここまでが第2回)
(第1回)学歴社会の闇
(第2回)テストの点数がなぜ賢さを示さないか
テストの問題点
前回の内容のとおり、テストは「解を導く」という技術の優劣を判定するに過ぎず、人の本質的な知性を量ろうとするものではない。では、そうだとして、そんなもの、そんな技術、果たして必要だろうか。否。不要である。積分計算の訓練をするくらいなら、早く走る訓練をしたほうがまだマシである。古文を読む訓練をするくらいなら、野菜を切る訓練をしたほうがまだマシである。史実の年号を暗記するくらいなら、冠婚葬祭のマナーを暗記したほうがまだマシである。テストはかなり無駄な技術が身についているかどうかを判定するものなのである。
しかし、学生はテストをないがしろにすることはできない。「成績」がつくからである。一見無意味に見える技術を判定する学力テストによってつけられた「成績」はひどく空虚に思える。しかし、その「成績」こそが、学生である自身の「価値」そのものなのである。ように思える。思春期真っただ中の学生たちにとって、この矛盾、いや理不尽は多大なストレスであろう。いったい誰がこんな悪いことをしているのか。
成績は「教育」というものがどのような形で施行されているかを考えれば、必然的に発生しうるシステムなのである。つまり、誰も悪くないし、だからこそ、どうしようもない。「教育」は国家には必要不可欠であり、また、国家による運営が必要不可欠なものである。となると、その規模は果てしなく莫大である。小学生・中学生・高校生だけで、1000万人は優に超える。そのような規模の生徒児童をどのように国家で画一的に管理しうるか。それは、数値による評価に頼らざるを得ない。成績というのは、生徒自身の達成度を示すほかに、担当した教師の達成度、その学校全体の指導達成度、その地方自治体の教育委員会の指導達成度、ひいては、国家全体の教育指導の達成度を示すのである。このような規模の統計を取るにあたってはやはり、具体的な数値が必要なのは考えれば当たり前なのである。
教養教育は実現しうるか
システムとしての必然性を考えれば、「テスト」は必要なもので、現状のような形をとらざるを得ないように思える。生徒がテストの点数を第一に考えるのと同様、教師、つまり学校側もテストの点数を第一に考えざるを得ない。生徒のうちの十分量、教育指導要領ならびに学校の教育目標を達成する水準での授業理解を実現しなければ、教師の側は職務怠慢となってしまう。そう考えると、教育の現場には、「余裕」がない。みんながみんな理解しているなんてことはまずないし、優秀な生徒が集まれば、授業のレベルも上がるわけで、やはり、「テストのため」の教育になりがちになってしまうのは仕方ないのかもしれない。
そんな中で、教養教育は完成しうるだろうか。自由に開かれた学びは実現しうるだろうか。個性を伸ばす教育は完成しうるだろうか。
答えは「YES」だ。
こんな余裕のない教育の現場において、唯一余裕に恵まれている人がいる。そう。生徒である。担当クラスの責任を負う教員、学校全体の責任を負う校長、教育委員会や文部科学省となれば背負うものはもっと大きくなる。そんな中、生徒だけは、自分ひとりのことだけ考えればよく、考えるのも他人ではなく自分であり負担はかなり軽い。私の見解では、理想的な教育を完成させるのは「学習者」本人である。(無論、保護者や学校の協力などが必要な部分も存在するわけでそれらについては後々議論していく)
教育の発展の三段階
学習者が追求すべきは次の三つである。「姿勢」「主体性」「対話」。そしてこの三つによって、理想的な教育はほとんど完成するといっていい。学習に対する姿勢を変えるべきということは、前回散々述べているので改めて言うこともないが、学校教育の場における「主体性」、つまり学習者当人が学習の主体であると認め、学校教育の主役たる責任を負う覚悟をすること、そして、一人一人がその責任の下確固たる意見を持ち、他者との「対話」の中で、集団として洗練された小社会として学校教育をより良いものへと変えていく、これこそが私が掲げる理想的な教育の在り方であり、今後の議論は主にこれがテーマとなってくる。
教育の運営主体は国家にあるかもしれないが、私は、教育は学習者(子ども)のものだと思っている。だからこそ、教育の主役は学習者本人であり、教育の発展は「学習者の成熟」であり、教育に従事する大人は、その成熟の支えとして機能すべきだと考えている。
教育、すなわち学習者の発展には三段階あると考えている。
- 学習:知性を身に付ける段階(初等教育~)
- 思考:知性に基づきつつ、自律して自らの意見を確立する段階(高等教育~)
- 対話:多様な価値観を認め合い、他者の意見を受容する段階(高等教育~)
次回からはこの理想とする教育のモデルの説明を主軸としながら、具体的に現在の日本の教育の問題点について考え、このモデルがどのようにその問題を解決しうるかということを述べていく。
【補足】教養の価値
ここで改めて、まだなおフワフワした解釈に留まる「教養」について、その価値を考察していきたい。
前回も述べた通り、人類の歴史は「技術」の発展の歴史であった。教養を身に付けた学者が革新的な「技術」を発明することによって歴史は進展してきた(これはあくまでそのようにも解釈できるということに過ぎず、歴史の進展を一面的にとらえきることはまず不可能であり少々危険性をはらむということについては、ここでは目を瞑っていただきたい)。
では現代はどんな時代だろう。どのような技術によって社会は成立しているだろうか。この現代、近い将来には、ある意味技術の進展は「完了する」、私はそう思う。「能力の拡張」である、「技術」。人類は電子制御によるオートメーションを完成させようとしている。現在の仕事が30年後にはほとんど残っていないと予想されているように、今現在の社会を成立させている技術は近いうちに人間の「肉体の拡張」である機械に複製される。人間にとって「技術」の価値は急速に低下する。とはいえ、人間社会がなくなるわけではない。現在とは全く違った労働や、幸せをどのように我々は享受しうるのか。SF世界のような未来で、我々はどのように我々自身を定義するのか。
そこで必要なのが「教養」である。「未知」へ手を伸ばせるのは人間の特権であり、最大の武器である。
技術の進展が完了したとしても、その「技術」の捉え方は無数にある。その「技術」で何ができるか、誰を幸せにできるか、もっと素晴らしいものにできないか、それを考えうるのは「教養」である。これはこれまでの歴史における技術の進展そのものであるが、未来、「教養」のもとに技術を自分なりに捉えなおし、新たな労働を生み出す、という行為は、労働者全てに求められる能力になる。今までは、「技術を進展させるための人材」と「技術を使うための人材」に分かれていたが、後者は不要になる。これからは新しい技術をのではなく、すでにある技術の新たな可能性を見出す時代が来る。新しいものを生み出すためには、専門的な技術では不十分である。広い視野、そしてそれでも尚その外側に未知が広がっているという認識のもとで、今まで無かった全く新しい何かは生成する。「新しい」が何か知るためには、既知と未知の境目がはっきりしていないといけないからだ。
教養のより具体的な内容についてはこれからの議論の中で追って説明していくが、教養に対して「自分(または世界)を変える力」であるという認識をいったん受け入れてほしい。そしてそれが学校教育によって手に入れられるということを信じてほしい。そうしたほうが今後の議論も幾分か飲み込みやすくなるだろうし、議論を進めていけば自然とここで言っていることが納得できるようになるはずである。
つづく
これにて第一部完である。これで「そもそもの話」は終わり。次回からは具体的に日本の教育について考えていく。論点は次の三つ「何が問題か」「理想的な在り方は何か」「理想をどのように達成するか」である。きっと第二部でこのシリーズは終了すると思う。
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