日本の教育について その2
前回は、日本の教育について考えるということで、まず教育の根本概念について歴史的背景も交えながら述べた。そこでは、教育は「社会が必要とする人材を育成するため」のものであると同時に、「子どものため」のものである、という解釈のもと、では「子どものため」の教育とは一体何かというところで、それは教養である、という結論に至った。今回は「教養」とは何かについて述べていきたい。
教養とは何か
まず初めに結論から述べたい。「教養」とは、「自分の無知(弱さ)を認める」ということである。古代ギリシアの賢人ソクラテスが述べたように、自分が知らないことがあることを知っているものこそが、賢い人間であるのである。「賢さ」とは、文明を築き上げた人類だからこそ、探求すべきものであり、つまるところ、教養とは文明人が文明人たる証明に他ならない。
「無知を認める」という姿勢に基づく学習は「教養」を築く。逆に言えば、意図的に「無知を認める」姿勢をとらない学習は内部的な知性の成熟は生みえない。
生物は普通、「未知」を警戒し拒絶する。「未知」と対峙した時、生物がとる選択は、自らの技術(力)によって制圧し既知の世界に自分本位で定義しなおすか、または、明らかに自分の方が劣っているのがわかる場合には、抵抗を諦め「未知」に対し適応する努力をし自分を再定義するかの二択である。人間もこのような選択に迫られることも少なくないが、「教養」はこの生物的本能の作用を止揚することによって、人間をより高次な文明人としうるのである。(生物のなかで人間だけが優れている、というわけではなく、生物的本能だけでなく、自律的な理性での判断ができるほうが人間的に成熟しているといえる、というスタンス)
教養における、「無知を認める」という姿勢は、「未知」に対する警戒を解き、直視するということ。「未知」を「知ろうとする」という行為なのである。これが学習の本質である。まず、世界には未知が溢れており、自分は無知であるということを知り、認める。そして、「未知」を「知識」に変えていこうとすること。これが学習の本質であり、それが「教養」の探求である。無知を認め、未知に対し開襟しなければ、知識の種は単なる「得体のしれない不気味な何か」でしかない。また、本の内容を覚えようとしたり、計算の訓練をすれば、無知を認め姿勢をとらなくとも、一見すれば知識が身についたように見える。しかしそれは「知性」ではない。外付けされた技術に過ぎない。
繰り返すが何よりも大切なのは、「無知を認める」ということであり、その上で、未知が知識に昇華することが真の知性を生むのである。自分の既知が世界のすべてだと考えるのは、暴力的な「支配」に他ならず、未知を未知のままにしてそれにひれ伏す(もしくは目をそらす)のは適応ですらなく、愚鈍な「諦観」にすぎない。
技術とは何か
「無知を認める姿勢」がどうしてそれほど大事か、ということを詳説するために、一度「技術」という概念を説明したい。先ほど、意図的に「無知を認める」姿勢をとらない学習は「外付けされた技術」しか生みえない、といったが、「技術」が何で、それだとどうしてだめなのか考えねば「教養」の本質には近づけない。
人類の歴史は技術の発展によって移り変わってきた。技術とは、生物的には脆弱にも思える人間においては重要な生存戦略であった。技術とはつまり、「能力の拡張」であり、石を穿ち尖らせるという技術は人間の攻撃力を拡張し、肉を火にかけ調理するという技術は人間の消化力を拡張したものである。食物を捕捉するという能力の革新的拡張として「農耕」が発明されて以来、人類は「生産」を開始し、人類史は現代までおよそ1万年生産力の拡張のために変遷してきた。歴史が進展すれば、必要とされる技術は変わり、技術が革新すれば、歴史が進展する。
技術は、「訓練」によって体得する。現代ではスポーツなどがわかりやすい例であろう。高いパフォーマンスの実現(つまり能力の拡張)のためには訓練(トレーニング)が不可欠である。無論、肉体的・精神的アドバンテージ、ディスアドバンテージは存在するものの、技術とは概ね訓練によって取得できる。
「技術」は最も端的にその人の存在価値を示す。例えば、原始時代の集落では狩りの技術にたけるものが重宝されるし、現代ではプログラミングに造詣の深い人がIT(近年ではより幅広い業種でも)企業に採用される。技術によって拡張された能力がその人の能力であり、高い技術は、その人自身の能力が高度であることをそのまま示す。しかし、それは決してその人の人間的成熟を示すわけではない。
技術を持つ人が重用されるのは、その人が素晴らしい人だからではない。あくまで技術が素晴らしいからに過ぎない。ある人が、どれだけ速く走ろうと、どれだけ上手くサーブを打とうと、どれだけ上手に魚をさばこうと、どれだけ上手に外国語を話そうと、それは、単にそういう訓練をしたに過ぎず、その技術を身に付けているほうが偉いとか、そういうものはない。何か偉いといえることがもしあるとすれば、その訓練に対する姿勢や、技術を披露するにあたっての姿勢である。「技術」そのものではない。例えが正しいかわからないが、人類は歴史の進歩によってより進化したと思いがちだが、それは技術の進歩であり、人間の進化ではなく、事実1万年前の人類と現代の人類では特に何も肉体的な差異はない。技術によって人は偉くなったり賢くなったり優しくなったりはしないのである。
つまり、「無知を認める姿勢」を伴わない学習は、訓練に過ぎないのである。だからそれによって得たものがあってもそれは知性ではない。ここからは、もっと日本の教育に即して、具体的な例として「テスト」に焦点を当て改めてここまでの内容をかみ砕きたい。
テストの点数は頭の良さなのか
私の中では、教育とは、子どもが教養を得るためのものだと思っている(「子どものため」の教育を考えた時)。教養の具体的な中身(知識)について考えてみるとなれば、それは基本的には、「学校で習ったこと」と思ってくれて十分だと思う。国語・数学・理科・社会・英語(所謂副教科を教養と考えるかは今後の議論に対する個人の解釈による)のことだ。しかしながら、「学校で習ったこと」そのものが教養の本質だとは思っていない。普通に考えれば、「学校で習ったこと」の理解度は概ねテストの点数、つまり学業成績に反映されている。
では、成績が良いということが、「教養がある」ということだろうか、「頭がいい」ということだろうか、「賢い」ということだろうか。私は人生の中で長くそんな疑問を持っていた。成績の良い人なら幾人と出会ってきたが、その中の多くは、私が敬服しひいては畏怖するような、「成熟された知性」を感じさせなかった。だから成績の良さと、教養や賢さをイコールで結ぶことは、どうしても私にはできなかった。きっと私だけではないだろう。多くの人がそう思ったことがあるのではないだろうか。成績がいいという人に対する、一種の失望。
「学ぶ」ということ
つまり「教養」とは、「学校で習うこと」の理解度ではない。「教養」とは、「学習者」として自立すること、即ち、「学ぶ」ということそのものである。「学ぶ」ということの本質は、「自分の無知(弱さ)を認めること」である。
自分の無知を認めなければ、教科書の内容(概ねすべてが「未知」である)は「得体のしれない不気味な何か」にすぎない。数学や物理の公式や、古文漢文、英単語の羅列、偉人の肖像画…。全く何を言っているかわからない、そう思う人も少なくなかっただろう。しかし、それでも、繰り返し読んだり、問題を解いていると、自然と教科書の内容がわかってくる。ような気がする。その後テストを受けるとなっても、解ける問題も少ないではないか。
テストとは、普通「解を導く」行為しか判定しえない。とはいえそれは「技術」でしかない。きちんと個人にあった練習を、十分な量こなし、試験当日にベストなコンディションで、実力を発揮しうるか、というこの一連の過程は、「技術」の訓練による習得の過程に一致する。スポーツやゲーム、その他専門的な領域での実力の向上のためにはこのような過程を踏むのが一般的だろう。しかし、前述のとおり「技術」そのものが、その人の本質的な「成熟」を表すとはいえない。「1m跳躍できる」とか「大型の運転免許を持っている」とかが、その人の人間的成熟を反映しているわけではない。テストの点数が、人間としての知性の成熟を示さないのは、テストが「技術」習得の訓練に過ぎないからである。(「技術」については詳しく後述する)
「教養」とは、訓練によって身につくような外部的な技術ではない。「学ぶ」という行為の本質に気づき、受け入れること、その上で生を享受するということが「教養」である。
つづく
今回は抽象概念の説明のために、「教育」にはそれほど触れられず、その上読みにくい内容となってしまった。次回はもっと「教育」に即した視点で、今回に続けて「テストや成績の仕組みの問題」について原因と改善策を述べながら、教育の現場においていかにして「教養の習得を達成しうるか」について述べていきたい。
コメント
[…] 前回は、「教養」や「技術」といった抽象概念についての、私個人としての定義を述べた上で学校教育の現場における「テスト」や「成績」について問題提起をしかけたところで終わっ […]