学歴社会の闇 | 日本の教育について(1)

勉強
この記事は約6分で読めます。

日本の教育について その1

2020年4月下旬の現在、日本の教育は未曽有の事態の最中であり、変革の時なのかもしれないと期待してしまうほどである。ということもあり、今だからこそ、現段階で自分が「日本の教育」に対し抱いている考えをここに残しておこうと思う。別に私は教育のスペシャリストでもない一学生でしかないのだが、幼いころから「教育」「勉強」「教養」「学問」といったテーマを探求し続けてきた身ではある。無論議論に不十分な点や不快な点があるかもしれない。ここに記すのはあくまで学生の戯言だと思っていただきたい。しかし、それがまた他の誰かの思考を喚起するなら、それ以上幸せなことはないと思う。

現在の日本の教育

教育は誰がために

具体的な問題点について論ずるまえに、そもそもの話をしなければならない。「教育とはなんのためにあるのか」。「勉強」でも「教養」でもなく「教育」の存在意義をまず考えねばなるまい。

教育を受けるのは「子ども」である。ともすれば、社会の中で「子ども」という存在が認知されたのが18世紀あたりの話であるため、「教育」という概念が歴史的にまだまだ新しく未発達のものであるとも考えることができる。18世紀から現代21世紀にかけて世界が急速に変容してきたのは言うまでもない。未発達でありながら、変容する社会への適応を迫られてきたのが「教育」である。つまり、教育が、現在そして未来、何のためにあるのかという疑問に答えるのはそう簡単なことではないのだ。

我々が考えなければいけないのは何よりもこの部分なのかもしれない。学生や、学生の親や、教員といった教育に関係する人なら誰しも、教育に不満を抱いたことはあるだろうが、教育という概念が根本的にどのような目標を持っているかを考えねば、どんな不満も単なる文句でしかない。

学歴は必要か

18世紀以前にも教育機関はあったが、それは上流階級のみに閉じられたコミュニティであった。教養または研究というものが国家のために有用だと認知されていたのは遥か昔からのことである。政治や交易や軍事のために、英知の結集は不可欠であった。しかし、それは貴族だけの話。農民は農耕をしていればいいのがざっと2、300年前の世界である。現在では考えられないが人口の85%以上が第一次産業に従事する時代である。

しかし産業革命を皮切りにその社会は変容する。技術の飛躍的な革新によって、労働や生産の幅は上がっていく。貨幣経済が国家全体に浸透していく中で、封建制は少しずつ崩壊していき、工業科の波の中で、一企業が専門的な研究を行うようになり、ペティークラークの法則に逆らうことなく、徐々に国民が従事する産業も高度化していく。現代では人口の85%が第三次産業に従事する。農業の生産効率が上がると同時に、教育を受けた人材に対する社会の需要も上がっていく。

18世紀以前の閉じられた「教育」は、19世紀~20世紀前半の世界の変容の中で徐々に市民に開かれるようになり、「自由」が世界的に市民権を得ると同じくして、自由な「教育」が現代に完成した。しかし、歴史を見れば、教育が社会に必要だから行われている、という側面は消えていない。現に、終戦直前や直後は教育はプロパガンダの一翼を担っていたし、米ソ冷戦の技術戦争の中、自由主義側の日本も教育指導要領を大幅に改定して優秀な技術者・研究者を育成しようと試みていた。本来「子ども」のために教育が存在しているように見えて、「教育を受けた人材」が社会に必要なだけだとも思える。「学歴社会」という言葉はそれを痛切に表している。「高学歴な人材」が企業が欲しいものであり、「高学歴」に慣れなければ就職できないのであり、だから「受験戦争」なるものが勃発するとかしないとか。これは、バブル崩壊の後、労働力に対する需要が少なくなったことで所謂「高卒」が就職にあぶれるようになったことに端を発するが、それがかれこれ3、40年も続いているのだから笑ってしまう。

「子ども」は何を学ぶのか

「教育を受けた人材」が社会にとって有用なのは仕方ないが事実である。教育が国家によるものである限りその側面は拭えない。しかし、学校が社会にとって都合のいい歯車を生産する工場というわけでもないだろう。教育の「子どものため」という側面についても考察しなければいけない。そして、多くの人はここについて全く考察しない。私は「学歴社会の闇」はここにあると思う。教育を受ける子供も、その親も、教鞭をとる教師も、その多くが「子どものため」の教育の在り方を考えない。将来どうなるかということばかり考えて、「今何を学ぶのか」を考えない。教育を受ける張本人の子どもですら、それを考えないのだから悲惨である。

そうして自然と教育は「学歴」のためのものになっていき、学校は本当に「工場」になってきた。勿論、すべてそうなったとは言わない。しかし私はそのような大きな何かが、大きな力が働いているように感じられてならないのである。今一度「子どものための教育」を考えるべきではないだろうか。学習者が学習者たるために、学習者が今何を学ぶのかを考える。

教養教育

私の中で、その答えは「教養」である。学習者が学ぶべきこと、それは「教養」である。そして、そういう観点で見れば現代の日本の教育は(高等教育課程までで履修していれば)「教養教育」のためにはまずまず十分な教育指導要領だと思う(不十分なところもなくはないが)。「教養」とは何か、というのはいったん後にして、

福沢諭吉が「学問のすゝめ」で示しているように、教育が市民に開かれ始めた当初の教育とは、実用性を重視する「実学教育」のモデルを採用していた。そのころから高度経済成長期が終わるまでの間、働けばお金が稼げるという時代が世を席巻する。全ての産業が未熟であったためである(無論不況期は除く)。当時は、将来何になるかを決めて、そのために必要な知識や技術を身に着けるために学校に行くのが最も合理的だったわけだ。学校を出て、職に就けば、年功序列・終身雇用で、真面目に働けば人生を保証されていたから。

現代ではそのような社会構造はとうに破綻している。社会に出れば何も確かなものがない。きっと多くの人が「学歴」というものの脆弱性を知るだろう。

現在の教育は、前述の冷戦期の研究者育成を目的とした教育指導要領をもとにしている。そして、それは古代ギリシア・ローマのリベラルアーツ、中華王朝の科挙のような「教養」を重視したモデルである。歴史的に名のある学者たちがどのような教育の中で生まれたか考えれば当たり前である。学者は技術者ではない。現在の教育が学者を生むためのものというわけではない。寧ろ、教育を受けたからと言って、何か実用的な技術がつくわけではない、という解釈が正しい。sinもcosも、古文も漢文も、別に社会に出て役立つものでもない。

どうしてそうしたのか、とか、教養とはなにか、とか、教養の存在意義を考える以前に、現在の教育のモデルが「教養教育」であるのは事実である。そうであるのにも関わらず、それに携わる者の多くが「実学教育」のスタンスで教育に携わっているのである。「教育」が何か実用的なものを身に着けるためのもので、「教育」を受けることによって社会に必要とされると思っている。

私は思う。「教育」とは「教養」とは、自分を何かに変えてくれるものではない。「教育」とは「教養」とは、何にでもなれる自由を手にするためのものである。

つづく

ということで、「教養」とは何か、ということについて私見を述べたいところではあるが、長くなったのでまた次回ということにする。この「日本の教育について」はシリーズとして連載するスタイルで行く。読む人0人でも絶対最後まで書ききる!

コメント

タイトルとURLをコピーしました