革命的ヒーロー漫画
となりのヤングジャンプで連載中の『one punch man』、週刊少年ジャンプで連載中の『僕のヒーローアカデミア』。これら二作品はどちらも紛れもない大人気作であり、多くの人が名前を聞いたことがあるだろう。今回はこの二作品について考察していきたい。というのも、この二作品は大衆の人気を獲得していながらかなり前衛的な側面もあるからで、そこからこれらの作品が伝えようとしている(と勝手に私が思っている)問題提起を繙いていきたい。この二作品は、その提起している問題について酷似しており、同時期にそのような二作品が同じく人気作となったのは歴史の必然とも見える。この二作品を知っている人は勿論、知らない人も、是非この記事を読んでもらい、現在日本に起こっている「ヒーロー漫画の革命」を感じ取っていただきたい。
※今回の記事についてはネタバレについて細心の注意は払いますが、多少ストーリー上重要な情報を記載してしまう可能性はあります。予めご了承ください。現在私は『ONE PUNCH MAN』については原作最新話まで(村田雄介先生ver、one先生verともに)、『僕のヒーローアカデミア』についてはアニメ最新話まで視聴しています。
ONE PUNCH MAN(略称ワンパン)
まずは作品について紹介していきたい。(ここは斜め読みでもいいかも)
『ONE PUNCH MAN』は「怪人」が突如として発生するようになった近未来の社会を舞台とした、怪人に立ち向かうヒーローたちの戦いを描いたバトル漫画である。「趣味」でヒーロー活動していた主人公の「サイタマ」は過酷な(笑)トレーニングの末、圧倒的な力を手に入れており、どんな敵も「ワンパン(一撃)」で倒せるようになっている。しかし彼はその圧倒的すぎる力に虚無感を抱いており、第一話の冒頭では、かなり強そうな怪人「ワクチンマン」を一撃で葬った後、「またワンパンで終わっちまったあああぁぁぁ!」と悲嘆の叫びをあげている(第一話はwebサイトとなりのヤングジャンプで無料公開されている)。その後サイタマは、「ヒーロー協会」なるものがヒーローを統率していることを知り、ヒーロー採用試験を経てプロヒーローとなる。そこで様々なヒーローと出会い、多くの怪人と対峙するのだが、サイタマの設定上、サイタマが登場するとバトルが終了してしまうので、サイタマがバトルに参加するのは、ほんの一部となっており、主役の登場シーンが極めて少ない珍しい漫画である。
作品の魅力については後程詳しく述べるのでお楽しみに。
僕のヒーローアカデミア(略称ヒロアカ)
次にこちらの作品の紹介を。
『僕のヒーローアカデミア』は人類の突然変異に端を発する、世界人口の約八割が「個性」と呼ばれる特殊能力を持つようになった超常社会を舞台としている。「個性」を悪用する「ヴィラン」を取り締まるため、本作品においても同様ヒーローがプロとして活動している。作品内では、「ヒーロー」が現実でいう「公務員」的な感じで、将来の進路として妥当な位置づけとなっており、「ヒーロー科高校」も存在している。主人公の緑谷出久もヒーロー科志望の学生であり、紆余曲折を経て、名門高校「雄英高校」に入学する。作品のキャッチでも「これは僕が最高のヒーローになるまでの物語」とあり、作品の焦点は主人公の緑谷がヒーローとして成長していく姿に当てられており、最強無敵のヒーローが主役のワンパンマンとは対照的である。
こちらも作品の魅力については後述。
ヒーローとはなにか
これら二作品が、ヒーローと怪人またはヴィランとの闘いの中で描いている(と思われる)のは「ヒーローとは何か」というテーマである。戦後直後の漫画創成期から日本にある「ヒーロー」という概念への改めての問題提起である。ここからは、二作品の類似点、相違点に注目しながら、作品の魅力とともにそのテーマに迫っていく。
二作品の類似点
二作品の類似点は、言わずもがな、「ヒーローが職業である」ということだ。この時点で、かなり前衛的である。今までの「ヒーロー」は、「無償」の活動または「個人的感情に由来する」活動であった。古典的なヒーロー、例えばアンパンマンや仮面ライダーなどを考えてみれば当たり前に「無償」の活動だし、ドラゴンボールの孫悟空や、キン肉マンは慈善活動というよりは、自らの興味や欲求のもとでの行動が結果的にヒーロー活動のようなものになっているだけだ。しかし、ワンパンやヒロアカの世界では、「ヒーロー」は給与が発生する職業なのだ。これは一見すれば「ヒーロー」のイメージを汚しているようにも見える。お金のためにヒーローをやっているというのはどうも本来の「ヒーロー」のイメージに合わない。
また「ヒーローランキング」なるものも存在しており、人気や実力に応じた番付も作品内のヒーローにとっては活動において重要な位置にある。これも、「ヒーロー」のイメージに反しているように思える。人にどう思われるか、そのために活動するというのもなんか違うように思えないだろうか。やはりヒーローは「無償の慈善活動」でなければいけないのか。
では、なぜそのような設定にしているのだろうか。且つ、なぜその設定でも読んでいるとこのような違和感が生じないのだろうか。
それは、良くも悪くもそれが「リアル」だからである。現実社会に警察組織があるように、反社会的勢力もしくは反社会因子に対抗する「ヒーロー」を統率し、運営していくためには、ヒーローだけでなく、ヒーローではない多くの国民の理解と協力が必要であるということだ。活動を流布するために人気ランキングやヒーローの「プロ化」というのは合理性から考えれば必然といえる。つまり現実の社会にもしも「ヒーロー」が存在すればどうなるのかということを考えれば、このような構造になってしかるべきであり、そのような設定によって、「ヒーロー」という非現実的な存在が、見事に「リアル」な概念として描かれているのである。この「ヒーロー」のリアルさ、身近さがこれらの作品の大きな特長であり、人気の秘訣といえるだろう。
このようにして、「社会」にヒーローがいるという世界観を構築して、「ヒーロー」という存在性について疑問を呈すことで作品性がグッと深くなっているのである。この問題提起については詳しく後述する。
二作品の相違点
二作品は違う作品なので、相違点は無数にあるが、ここで挙げて殊更に強調したいのは、「ヒーローの能力」である。ヒロアカでは、先にも述べた通り、「個性」という特殊能力が当たり前に存在する世界観なので、勿論ヒーローにも特殊能力が備わっている。筋肉を瞬間的に増強したり、手から炎を出したり、全身を硬化させたり、様々な能力のキャラクターがいて、それぞれその個性を生かしながら戦う。これは、「ヒーロー」という概念には適しているといえる。やはり「ヒーロー」といえば、特殊な力や超パワーによって悪を成敗する存在であり、ヒロアカでは突然変異による「個性」の発現という設定によって、「社会」にヒーローが存在する辻褄を合わせているのである。
一方ワンパンの方は、基本的にヒーローも「一般人」である。この衝撃の設定がワンパンの魅力である。無論怪人の方は一般人ではなく文字通り「怪人」であるにもかかわらず、ヒーローは一般人なのだ。そうはいってもヒーローも怪人を倒すのであり、そのため、一部のヒーローは、高度な筋力トレーニングによって絶大な力を手に入れていたり、拳法の使い手だったり、忍者だったり、または、サイボーグだったり、兵器を利用したり、超能力(念力)の使い手もいる。しかし、そのような力に恵まれているのは、作品内S級と称される最高レベルのヒーローたちだけに過ぎず(一部S級以外にも強い力を持つヒーローもいる)、ほとんどのヒーローは紛れもなく「一般人」である。かくいう主人公のサイタマも就活に失敗にした若者であった。彼がどのようにして最強になったのかは作品を読んで確認してほしいが(アニメでも可)、彼は紛れもなく一般人であり、それでいて最強というのが面白い。
ここに浮かび上がってくるのは「ヒーローの脆弱性」である。ワンパンは勿論、ヒーロー志望の学生にフォーカスされたヒロアカにおいても、悪に対峙する「ヒーローの無力さ」が克明に描かれるのである。その無力さを軸として、ヒーロー本人、悪役側、それを見る国民が「ヒーロー」という概念を考えるのだ。ヒロアカは「成長」が主軸の作品ではあるので、無力さの痛感からまた一つ大きくなっていくヒーローたちの姿を見ることができ、実に胸アツな展開も多々あり、そこが魅力なのだが、ワンパンの方は切なくなるくらい無力で、パワーアップとか変身とかも勿論ないので、絶望的なシーンも多々ある。だからこそ「極限状態」のなかでヒーローがどういうものかというリアルな葛藤が描写されている。
勧善懲悪の二元性への問題提起
ではここまでで十分長くなってしまったが、本題に入りたい。ここまで述べたような特徴の上で、これら二作品がどのような問題提起を行っているかという話だが、それは見出しにもある通り、「勧善懲悪の二元性への問題提起」である。「悪」という概念があり、それと対になる存在として「正義」があり、正義が悪を成敗するという、その基本的な勧善懲悪の構造に対する、疑問の提示、さらに詳しく言えば、悪と正義という概念の二元性そのものへの問題提起である。近年の人気バトル漫画にもそのような描写は多々見られており、所謂「悪役側」のバックグラウンドを整え、単なる「悪役」として描かないスタイルは現在主流といってもいい。銀魂やハンターハンターなどでも人気の悪役がいるのはそういうことだ。
そういった流れの中で、これら二作品は生まれた。それも、問題提起の部分を強烈に形骸化させながら。わかりやすい善悪の二元構造として「ヒーロー」のいる社会をいわば「前フリ」として使っているのである。
圧倒的な暴力
ヒロアカ内で悪役側のメインキャラクターである死柄木弔は「同じ暴力なのにヒーローは正義として認められ、ヴィランは悪として抑圧される。その構造が気に食わない」という旨の発言をしている。その構造を壊すために、ヴィラン連合なるものを組織し、ヒーロー社会の瓦解のため暗躍する。
ワンパン内での悪役側の重要キャラであるガロウは幼少期に、「悪役だって頑張っているのにいつもヒーローにやられちゃう。そんなのかわいそうだよ」といった内容の感想をテレビアニメに抱き、のちに、ヒーローに負けない最強の怪人を目指すようになる。
私の稚拙な文章では何も響かないかもしれないが、作品内でこれらの発言が登場するシーンはとてつもない衝撃を読者に与える。悪逆の限り暴力を尽くす「悪」を成敗する者としてヒーローが存在するという暗黙の了解、また、悪役に対し憎しみや嫌悪を抱くよう効果的に組み立てられたプロットのもとで、ヒーローが悪を成敗することに何の違和感もない状態になったうえで、このセリフを見たとき、私は立ち止まらざるを得なかった。どちらもやっていることは同じじゃないかと。どちらも自らの目標のために「暴力」行使しているのであり、暴力を抑止するのもまた「暴力による恐怖」であり、これらの構造はヒーローも怪人、ヴィランも同じなのである。
このようなむき出しの問題提起の前で様々なキャラクターが葛藤し成長し、また絶望する。その残酷さと一縷の希望の中に、「ヒーローとしての精神性」を止揚させることで、もう一度「正義」というものを定義しなおす。
ヒーローは悪に立ち向かわなければならない。ヒーローは平和をもたらさなければならない。ヒーローは皆に笑顔を届けなければならない。その精神性の美徳のもとにもう一度、ヒーローをヒーローたらしめ、妥当な正当化の末に闘いを結末させる。ここにこれら二作品の作品としての本質があると、私は感じている。
平和を築くのは何か
このような作品が今生まれたのは、価値観が多様化した現代、一種必然だったのかもしれない。この現代を生きる中で、善悪が二元的に描かれるのは嘘くさくあり、さらにいえば、危険ともいえる。我々が直面する争いの多くにおいて、それは「正義同士の衝突」だからだ。平和を築くのは「正義」ではない。これらの作品はヒーローという「正義の味方」に主眼を置いた作品を以てそれを示している。それがどれほど前衛的で挑戦的な試みか。そしてヒットしたということがどれほど意味のある事か。作品内で描かれる葛藤の中に平和を築く可能性が隠されているのであり、一つの視点にこだわらず、他者の視点に立つ多元的なものの見方、またヒーローが追い求める美しい精神性、このようなものが我々が平和のために獲得しなければいけないものなのだろうと、そう気づかせてくれる。このような歴史の転換点に立ちあえて私は至極幸せだと、そう感じざるを得ない。
ここまで長々と述べてきたが、作品の良さは伝わっただろうか。うまく伝わらなかったら私の力不足だが、もしおもしろそうだと思ってくれた人がいたら是非読んでほしい。今はアニメも漫画も家でリーズナブルな価格で(場合によっては無料で)楽しめる時代である。こんな今だからこそゆっくり作品の世界に浸かり考察を深めてもいいのではないだろうか。
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