みんながよくいう「普通は」ってなにを定義してるんですかね。
という質問が質問箱に来てました。今回はそれにちゃんと答えていこうと思います。そんな長くならないよう、スパッと書くよ。
「普通」を形成する営み
日々生きていれば、「普通ってなんだよ」とか「それはアンタの普通だろ」ってなることもあるでしょう。じゃあ「普通」って何か。「常識」でもなく、「基準」でもなく、「普通」。
自分は「普通」とは、人間の社会性が必然的に形成していくものだと思います。
かみ砕いていきます。人間とは社会的な生き物であり、その「社会性」こそが人間が人間たる唯一の証明だと信じています。その「社会性」について考えてみると、人間が「普通」という概念を形成するのはごく自然なように感じます。自らがこの集団の中で生きていくために、「普通」でなければいけないからです。
人間は脆弱であるからこそ、社会を形成します。人間の一個体にとって、社会から疎外されることは即ち死を意味します。コミュニティが多様化した現代でもそうです。しかし、予め「普通」と呼ばれる何かが存在するわけではありません。「普通」なんてものは存在しないのです。質問の中に「普通は何を定義しているのか」とありますが、「普通」とはある特定の何かを定義するものではそもそもない、そう思っています。
さらに説明を深めます。
つまり「普通」とは社会のなかに馴染むために集団内で徐々に形成されていく極めて抽象的な概念なわけです。人が「普通は~」と語るとき、それは即ち社会的行為なわけです。今まで自分が生きてきたコミュニティではこのような「普通」が使用されていたが、ここでは違うのですか?ということです。または、今までこれが「普通」だったんだから、これが「普通」だしここでもそうしてくれ!というタイプもいますね。
「普通」という語を利用する際、人は何かの定義としてその語を使うのではなく、その集団の中にある「普通」を理解し、同時にまた新たに形成するためにその語を使うわけです。(あくまで一個人の見解です)自分が思っている「普通」と集団の中にある「普通」をすり合わせていく、それは人間の社会性が営む根源的な行為に他なりません。
終わりにもう一つ大事なこと
質問への回答は以上ですが、最後にもう一つ大事なことを言わせてください。それは「普通」への評価です。人間は社会の中で生きるために、「普通」をすり合わせ、馴染む、と言いましたが、例外があります。それは「普通」が社会的に不適切な時です。人間は「普通」でなければ社会の中で生きていけませんが、かといって「普通」をそのまま受け入れてはそれはそれで非人間的なわけです。自律的思考がありませんからね。仮にその集団の中で「普通」だとしても、受け入れていいのか悪いのか、きちんと評価し、自分の意思をもってその「普通」と対峙しなければいけません。それこそが真に社会に生きるということであり、そこまでして初めて「普通を形成する営み」が完結するわけです。
私の「普通」がみんなの「普通」だと思っている人がいたら、それはまだまだ社会を知らない幼子ということです。これを読んでいる皆さんはそういう人には大人として節度ある対応をしていただけたらと思います。
以上読んでいただきありがとうございました。
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